ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

こらえるということ

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「頑張って」という言葉を言ってはいけない人たちがいる。
そのこと自体がプレッシャーになってしまうらしい。

確かに何が何でも頑張るという態度には
ある種の違和感を僕も感じる。

だけど生きてれば頑張らなきゃならない場面も出て来るし、
逆に頑張っては行けない場面も出てくる。

臨機応変というやつですな。
しかしこれはこれで結構難しい。

僕の長女が生まれてきた時、産婆さんが間に合わず、
僕が取り上げることになった。

出産というのは頑張ってはいけないものの代表のようなもので、
力んでも苦しいし、力を抜けと言われても簡単に抜けるものではない。

そこで必要になるのは「こらえる」という感覚です。
これは「我慢」するということとは異なります。

「我慢」というと何かに対して精神的に抵抗するようなイメージがありますが、「こらえる」ということは自分の内側を感覚的に充実させることを言います。

精神の問題と言うよりむしろ身体能力の部類に入るでしょう。

「リラックス信仰」というようなものがあって、
それは力を抜くということが一番いいことだと理解されている。

出産のときも「リラックスして」とよくいわれるけど、ただ力を抜くことなんてあの状況では不可能です。

「こらえる」という感覚を軸に対応するのが自然だと僕は思います。

「こらえる」とは言い換えれば「一点で支える」ということに集注していく作業のことです。

出産の時によく「はひふへほ」の音で発声すると楽になると言われていますが、これは本当で、うまく発声するためには身体のどこか「一点」で支えることが必然になるので、楽になるのです。

一点で支えることで充実してくる身体。
誰かがそれを発見し、文化として育ててきたことに
僕はこの国の良き面を見いだすことが出来るのです。

こういった身体能力を育てることが今の教育にとって急務だと思うのは僕だけでしょうか?

腹を作る

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いくら頭で「前向き」に考えようとしても、
いくらいいイメージを心に描こうとしても、
うまくいかない時がある。

いやむしろうまくいかない時の方が多い。

それは何故か?

望みが強ければ強い程、
「望み通りにいかないかもしれない」
という不安、不信の心に苛まれた経験は
誰でもあると思う。

前向きに考えていてもいつの間にか、
それがうまくいかない要因ばかりが心に浮かぶ。

よいイメージを心に描いていたはずなのに、
いつの間にか最悪の状況を想像している。

そして「私はなんて心が弱いんだろう」と自己嫌悪と自己不信の無限循環に陥るパターンにはまっていく。

僕も長い間ここにはまっていた。

考え方や感じ方を「心」の問題と捉えること自体に無理がある。
心というのはいつも捉えどころがなく、無限に自由に、矛盾を生み出していく働きそのもので、意識で制御しきれるものではないし、まただからこそ大きな力を生み出す源ともなり得る。

僕は今必要以上に落ち込むことはなくった。
また失敗しても自己嫌悪に陥ることもなくなった。

心も考え方もそれを支えているのは身体で、
追求すべきは身体感覚とうことに行き当たったのだ。

自分を「心の有り様」の中に求めることをやめて、「身体の有り様」に求める。

それを教えてくれたのは他でもない日本の伝統的な暮らし方の中で育まれて来た身体の使い方だった。

意識が変わる時(2)

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ある人に殺意を持つ程怒り狂ったことがあった。

何故そんなに怒っていたのかという理由は言えないけど、
その時、僕は血がどす黒くなるくらい怒り狂っていた。

僕は滅多に怒らない。
しかし「薩摩」と「天草」のハイブリッドなので、一旦怒ると手がつけられない。

その時僕は自分を見失う程の怒りに苛まれながら街を歩いていた。一歩歩みを進めるごとに新たな怒りがわいてくる。

僕は自分をどうすることも出来ずに街を歩いていた。

と、ある交差点の信号で立ち止まった時、向こうから右折して来た車があった。

その車に乗っていた一人の女の子が満面の笑顔で僕に手を振っていた。

その笑顔の素晴らしいことといったらなかった!!

その笑顔は僕に「生きてるって本当に素晴らしいよね」と伝えてくれていた。

僕は思わず彼女に手をふりかえした。
強く、強く手を振って彼女を見送った。
いつの間にか信号は変わり、僕だけが交差点に取り残された。

気がつくと、僕は満面の笑顔で赤信号の横断歩道の前にいた。
「あれっ、さっき確かものすごく怒っていたよなs。」

僕の中から怒りはみじんも消え、さわやかな生の喜びだけが湧きたての泉のようにこみ上げていた。

どんなに思い出してもあの怒りは思い出せない。。
「いったい何が起こったのか?」

「怒りなんて大したもんじゃないよ! もっと生命を楽しもう!!」

天使の存在をその時から僕は信じるようになった。

意識が変わる時(1)

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価値感が突然変わってしまうことがある。

10年ほど前、ミッシャ・メンゲルベルグというピアニストの演奏を見に行った。

彼はヨーロッパ・フリー・ジャズ界の中心的存在として独自の世界を切り開いてきた高名なアーティストなのだが、当時の僕はその名前さえ知らず、ただ「有名なジャズピアニスト」らしいというので、友人に誘われるままなんとなく出かけていったのだった。

会場に到着して驚いた。

そこは普段は障害者の人たちの作業所として使われている場所で、当時の僕の持っていたコンサート会場のイメージとは大きくかけ離れた場所だった。
しかも演奏が行われる場所はその施設にある食堂で、使用するピアノは近所の人から借りてきたアップライトピアノだという。

そしてその「食堂」に入ってさらに驚いた。

観客のほとんどが重度の障害を持つ人達で、彼らの出す嬌声やうめき声、そして彼らに取り付けられた機械の出す音はかなりのもので、「音楽鑑賞」にふさわしい場所とは言いがたかった。

「本当にここでやるの?」
何かの間違いではないかと思いたいのだが、目の前には近所から運ばれてきたというアップライトピアノが置かれている。

そしてミッシャがやってきた。

彼は会場の状況に驚く風もなく、我々に会釈すると演奏体制に入った。
それから起こったことを僕は一生忘れないだろう。

最初の一音がなると会場が一変した。
今まで騒音にしか聞こえなかった音達はミッシャの奏でる音と不可分のものとなり、その場にあるすべての音はかけがえのない生命の奏でる聖なる音としてその真の姿を現しはじめた。うめき声は歌声に変わり、ひっきりなしに動く機械の音は通奏音を奏でる楽器に変わった。そこにあるすべての音が生き生きとした魂を持っていた。すべてが見事に関係し調和している。

いったい何が起こったのだろうか?
驚きと喜びと興奮に包まれながら、僕は新しい地平が静かに開かれていくのを眺めていた。

「音楽はこう聴くもの」「音楽はこういうもの」と無意識に了解して来たものはもろくも崩れ、しかもとても嬉しいという非常に不思議な感覚に包まれたことを思い出す。

それから時々街の音達がアンサンブルとして聞こえてくることがある。それはもちろんメロディーもリズムも持たないものだけど僕には明確に「音楽」として聞こえるのだ。

この経験はもちろん音楽に対する感覚だけを変えたのではなかった。
それは時間をかけながら今も僕を前に進める流れの源となっている。

Enjoy !

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ある駅の階段を上りきったところで、外国人の中学生くらいの女の子が歩いている人達に「Enjoy !」と呼びかけていた。
ほとんどの人は無視して通り過ぎていく。
それは彼女を無視するというより「Enjoy」するということから顔を背けているという風に僕には見えた(思い込みだろうけど)。

ある時、街を娘と歩いていたら娘が突然「お父さん見て!お空がきれい!!」と言って空を指差した。本当に綺麗な夕焼け空で、思わず二人立ち止まって見入ってしまった。ふと気がつくと空を見上げているのは僕たちだけで、他の人たちは速度を緩めることもなく黙々と歩きすぎてく。僕たち二人は急流に洗われる岩のようだった(これも思い込みだと思うけど)

ずいぶん前にあるイベントで演奏した時のこと。
こういう不特定多数の人が集まる日本のイベントではありがちだが、お客さんの反応がない。僕達の実力がなかったと言われればそれまでだが、ちょっとそういうのとは違う感じがする。

演奏の途中から僕は、お客さんたちが羊に見えてきた。
もぐもぐもぐもぐ草を食みながらこちらを見ている羊たち。

以前カナダのジャズフェスティバルで演奏した時にはまるで違っていた。
空港に迎えにきてくれた人はボランティアの高校の先生だった。彼女は日本の1BOXカーの倍ぐらいある車を運転しながらいろいろな質問をしてきた。彼女は(彼女だけでなく出会った他のスタッフみんな)本当に楽しんでリラックスしているように見えた。車を降りる時、彼女はこう言った。

「Enjoy !」

演奏会場の雰囲気も日本とは大きく異なる感じがした。
確かに音楽好きの人たちが集まっているのだろうけど、積極的に楽しもうという姿勢がはっきり現れていた。
ましてその時は完全即興演奏だったので、はっきり言って踊るとかそういった音楽じゃない。どんな演奏になるのか誰にも分からない。
にもかかわらず、最後は会場中大盛り上がりになってしまった。

演奏を通じて、それぞれの人生の同じ時間を共有し、Enjoy出来たことが嬉しかった。

このカナダでの経験は大きい。

日本では楽しみ方が指示され「楽しんでよし」と許可がでない限り楽しめないような感じがする。これは何故だろう?

僕は時々、子供たちに即興演奏のワークショップをやっているのだが、ワークショップをやっていて小学三年生以上に言ってはならない禁句があることにある時気づいた。

「自由にやってごらん」

自由にやってと言うと必ずと言っていい程子供たちは周りをきょろきょろし始める。誰かの許可を求めるように。。

学校で何かが起こる。何かがなされる。

学校では「まだ足りないもっと成績を上げろ、もっと順位を上げろ」と言われ続ける。これが繰り返されると自分は不完全で不十分な存在という観念が植え付けられる。少なくとも僕の場合はそうだった。

なんでそのままで全然OK !!!と言ってあげないんだろう。

まず子供たちに教えるべきことはEnjoyしてもいいんだよということなのかもしれない。

あっ、大人の方が先か(笑)

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榎田竜路

Author:榎田竜路
気がついたらこの星の上にいました。
音楽作ったり演奏したり、映画を作ったり、森をつくったりといろいろやっております。

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