ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

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親の気持ち

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僕は親不孝な息子だ。

僕は母からよく「あんたは親の気持ちがわかってない」と言われた。
そういう時の母の眼は本当に悲しそうだった。

「親の気持ち」を初めて味わったのは、長女が産まれた時だった。

「多分、私は間に合わないから、取り上げといてください」という産婆さんの言葉どおり、その子は「おしるし」がきてから4時間も経たないうちに産まれてきた。

その時、その子は胸まで出てきていた。産婆さんはまだ到着しない。
僕はすでに自分が取り上げる覚悟を決めていたので、もう不安はなかった。ただ、人が一人この世に産まれてくるという不思議に、ぴったり一つになっているという感覚だけがあった。

その子は羊膜をかぶったまま出て来た。しばらくそのまま様子を観ていたら産婆さんが到着した。
産婆さんは「分かっている」という風にうなずきながら入って来て、僕の横に静かに座った。

産まれてくる時に驚かせないため部屋は暗くしてある。
しずかに時が移っていった。

「呼吸させちゃいましょうか?」という産婆さんの言葉に分けのわからないまま「はい」と答えた。

羊膜にはさみを入れたとたん、「プルップルッ」と膜がまくれて、顔が見えた。

その子はまるで、自分が生まれた世界を確かめるようにゆっくりと左右に顔をふった。そして「ミャッ、ミャッ」と二声あげた。

そのとたん僕の中に激しい変化が起こった。

「この子はいい子だ」というとてつもない感情が溢れ出し、思わず産婆さんに、「この子いい子ですよね!いい子ですよね!」と夢中で問いかけていた。産婆さんは「ええ、いい子ですよ。とってもいい子ですよ」と答えてくれた。

あとで笑い話になったのだが、これが「親の気持ち」というものなのだということを実感した。何があってもこれは、ずっと続いてくのだ。

母親に電話をして出産の報告をした。興奮状態で「とってもいい子だ」と伝えたら、「どうだ、親の気持ちがわかっただろう?」と言われてしまった。

僕は返す言葉がなかった。

僕の両親がそうであったように、どんな親不孝をされてもきっとこの気持ちは僕の中に流れ続けるのだろう。

僕は一人っ子だったけど、僕には既に三人の子供がいる。
「どうかお手柔らかにお願いします」と自分の事は棚に上げる父なのであった。

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赤紙

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 僕の母方の祖父は戦死している。「金剛」という戦艦と運命を共にした。彼には妻と4人の子供がいた。

 僕は子供の頃、両親の仕事の都合で、鹿児島の祖母と暮らすことが多かった。だから僕はこの祖母のいる場所を故郷だと思っている。(今は両親もそこで暮らしている。)

 誰にでもあることだが、僕は20代の頃、自分のやるべきことが分からずにもがいていた。「いい暮らし」ばかりに気をとられていたことが原因だったのだが、その当時は全くそれに気付かなかった。

 よりステイタスのある仕事して、よい車に乗り、良い家を建てて、いい女とたくさん寝る。そういったことを一挙に実現させる手立てばかりを空想して、一つも実現しなかった。

 信じられないかも知れないけど、僕は弁護士や公認会計士になろうと真剣に考えたことすらあった。そうすれば良い収入が得られると考えたからだ。そしてそういう生活を手に入れるためには「自分」を変えなければならないと感じ続けていた。それは結婚して子供が生まれるまでくすぶっていた。

 自分がその当時手に入れたいと感じていたもののほとんどは、巧妙な「広告」によって引き起こされた一種の錯角だった。

 僕が必要としていたのはステイタスなどではなく、自分自身に対する信頼性といったようなことだったのだ。何も変える必要はない。自分を証明する必要もない。

 これは僕が欠点のない完璧な人間だという意味ではもちろんない。時々、僕は人々の反面教師となるべく生まれついたのではないかと感じるぐらいなのだ。

 しかし、僕が言う「変える必要のない自分」というのは違うのだ。
 
 多分それは仏教用語で壊れないものを指す時に使う「金剛」という言葉で表現されるものに近いのかも知れない。

 むかしバブルの頃、温泉の中に高級時計をつけたまま入っている人がいた。僕はそういう人を見る度、不思議に思っていた。温泉で時計が傷むんじゃないかと。しかし今は良く分かる。彼は、自分は金があるということを周りの人に始終知らせていないわけにはいかなかったのだ。湯舟に高級車を持ち込むわけにはいかない。それに風呂は当然裸で入る。人は裸になれば金持ちかそうでないかの見当をつけるのは難しい。しかし僕はその人のことを笑えない。

 人の判断に「自分」の価値を委ねる危険性を説いている人は昔から大勢いる。「自分」よがりになる危険性についても同様だ。

 しかし、娘が生まれたことによって僕は自分の「金剛」と遭遇した。理由はわからない。とにかく自分を証明する必要を感じなくなったのだ。

 そして僕は最近、戦死した祖父のことを良く思い出す。それと彼が受け取った「赤紙」のことを。

 僕が自分を証明するために自分自身を変えようと必死だった頃(25,6才の時だったと思う)、僕は鹿児島の祖母を訪ねた。その時、祖母がその赤紙を見せてくれた。召集令状というのが正式の名称らしいのだが、それが赤い紙に書かれていたから赤紙というらしい。しかし祖母の見せてくれた「それ」は赤くなかった。それどころか「それ」は何かの書類の切れ端の裏に書かれていた。終戦の一年程前で戦況は、「老兵」というべき年令の祖父に召集がかかるくらい悪化していた。今ではメモにも使わないような「紙切れ」が一人の人間の生死を左右する程のことを知らせてきたのに僕はショックを受けた。

 祖母の意図は僕にはわからなかった。その時はただ頑張れと言いたいのだろうぐらいにしか思わなかった。しかし今は何となく分かるような気がする。

 僕は40才をいくつか過ぎた年になった。戦死した祖父より長生きしていることになる。祖父は家族を残して逝かねばならなかった。祖父には選択の余地はなかった。そして祖母や僕の母たちにも。そしてそれがまさに祖母が僕に謂わんとしていたことだったのだ。

 「お前は自分自身であること選ぶしか選択の余地はない。自分という赤紙(運命)をうけいれよ」

 父親になり、自然そうなった。全く不思議な現象だ。それにしても他人の作った価値観になんであんなに夢中になり、それを達成するのが自分の望みだと思い込めたのだろうか?いま思えば、どうかしていたとしか思えない。

 さらに不思議なことは「自分という赤紙」を受け入れてから、自分がやらずにいられないと感じることは実現に向けて動き出すということだ。祖父が後押ししてくれているのかも知れない。

天職

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数年前に、友人(演出家)に頼まれてあるワークショップの賄いを手伝ったことがある。
 
 この友人はその当時、古い民家を改造したスペースでいろいろなことをやっていた。そこは宿泊も出来るスペースで、時々ワークショップや合宿にも貸し出していた。

 僕が頼まれたのは「あなたの天職を探しましょう」という趣旨のワークショップだった。「トランスパーソナル心理学等を応用し、あなたの隠れた才能と適性を知る」というような内容のものだったと記憶している。

 参加者はスタッフを入れると30人程だったろうか、僕は料理はやるけど、そんなに大勢の人たちの食事を作ったことがないので最初不安だった。しかしさすがにこの友人は慣れていて、メニューも材料も手順もあらかじめ用意されていたので、案外二人でもやれてしまえた。

 僕と友人は演劇で何度も一緒にやっているので気心は知れている。キッチンの中は無言で着々と料理が進行している。お互い以心伝心で、僕が鍋をおろすと友人が鍋敷きをさっと出し、友人の両手が塞がっている時に僕が水道の蛇口をひねるといったような具合だ。なんか音楽のセッションしているようなある種のグルーブ感というか、流れというか、そんな感じのものがキッチンに生まれてきた。

この「集中の世界」に入ると、余計なことを考えたりやったりしなくなる。
ただぴったりと何かに合わさって生きているというような感じ。
何をやっても、この「集中の世界」に入れば同じだ。

そうこうしているうちに参加者が到着した。
友人は挨拶と案内に出たが僕は一人で作業を続けた。

間もなく友人が戻り、夕食の準備が整った。

僕も友人と一緒にワークショップの参加者と一緒に食事をした。その時に面白いことが起きた。

参加者はそれぞれの「天職」を追い求めている。
午後のワークが終わって、参加者は新たに知った自分の隠れた要求や可能性についてにぎやかに話している。今の自分は「本当に向いている仕事」に就いていないというのが参加者達の一致した意見だ。出来ればこのワークショップで、「本当に向いている仕事」を見つけたいというのがこれまた共通した願望のようだ。

僕と友人はすみの方で食事をとっていたのだが、ワークショップの主催者が僕の友人に挨拶を求めた。友人は立ち上がり参加者に向って歓迎の言葉を述べた。それから流れで、今日の食事を一緒につくった僕を紹介した。

友人は僕が音楽家であること、映画や演劇や映像や舞踏などに楽曲や演奏を提供していることなどを演出家らしく、まさに演出して(大げさに)話した。

その瞬間、参加者の僕に対する態度が一変した。
それまでは賄いの手伝いに来ている「ただの人」だったのが、実は「天職保有者」(こんな言葉ないか。。)だったのだ。

その変化は少なからず僕を困惑させた。

その困惑は参加者の一人の「えーっ、音楽家に料理なんかさせて悪い!」という一言でピークに達した。

僕は料理を作ることと音楽することに「地位」の違いを見いだせない。
彼らは「天職」という言葉を「仕事の種類」と捉えているようだ。

じゃぁ、天職っていったい何なんだ?

もし誰かが「あなたの天職はなんですか?」と僕に質問したら、僕はこう答える。

「今やっていること」

僕は2001年の自宅の火事のあと、すっかり「価値観」が変わってしまったらしい。家も仕事道具である楽器もコンピューターも突然消えてしまったので、今までのやり方では一日も暮らせない。自分の意志でどうにもならない流れにのってしまったのだ。

しかし、そのおかげで僕は人の作った価値観に引きずられる生き方から脱却出来た。着るものも、火事の後助けてくれた人たちからいただいたものだからサイズが多少合わなくても、また似合わなくてもありがたかったし、食器だってばらばらだし、布団もばらばらだった。
それでも家族全員無事で生き延びたという喜びにいつも満たされていた。
ものに不自由して初めて「豊かさ」と出会えた。

僕達は完全に流れに身を任せる生き方にシフトした。それしか方法がなかったのだ。「来るもの拒まず」で生きて来たら、とにかく今日まで生き延びることが出来た。

このプロセスで、僕達は「何を」やっているかより「いかに」やっているかの方がはるかに重要だということに気づいた。
もちろん「何を」するかは重要だ。しかし「何を」に執着している時は知らずに人の作った価値観に踊らされている場合が多い。

「いかに」に集中することは自分の力をのばすことにつながるので、自然に自分の力に見合った「何を」がやってくるようになる。僕はこれを経験しました。

「今やっていること」以外に人生におけるその時間を生きる方法はない。
僕達には時間制限があるのだから大事にしたいと思う。

伝わるもの

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2001年10月の火事からひと月程後の話。
僕はあるミュージシャンから誘われて、横浜市のある商店街のイベントで演奏することになった。火事の時たまたま持って出て、唯一焼け残ったギターを担いで僕は出かけた。

僕はその頃即興演奏しかやっていなかった。
今は自分の作った曲を演奏したり、歌ったりする。でも僕の音楽の源と特徴は「即興性」にあると思っている。
それはその場で自分を通して出てこようとするものにギターの演奏を乗せるという作業だ。

それはある種シャーマニックな体験と言える。
うまくその場にいる人たちに伝わるチャンネルが開かれれば、その場は不思議で生々しい世界となる。
でも「商店街のイベント」というような不特定多数の人たちが集まる場所でそういう状況を生み出せるのかどうか。。。

取りあえず僕は会場に向かった。
そして演奏が始まった。いつものように勝手に身体が動きだし、意識とは別の何かによって僕の中から何かが出ていくのを感じた。
立ち止まってみている人。素通りしていく人。そんないろいろな人を眺めながら、僕は全く違う世界とコンタクトしている。

演奏が止み、ギターを持って下がろうとした時、まっすぐこちらに向かって歩いてくる人が見えた。

その人はいわゆるホームレスに近い身なりをしていた。
彼はまっすぐ僕の方に来てこう言った。「よかった!本当によかった!!」
彼はさらに、そばにいた当時二歳の僕の娘に向かってこう言った。
「お父さんはすごい人なんだぞ!」

最初に断っておくけど僕は自慢している訳ではない。
僕は本当に嬉しかったのだ。

「伝わった。僕を通して出て行ったものがこの人には伝わった。。。」
そのことが実感として僕の身のうちを震えさせる程喜びに満たした。
しかも彼はそのことを素直に僕に「伝えて」くれたのだ。
これこそコミュニケーションのもたらす喜びそのものだ。

感じたものを素直に受け止めて、素直に返す。
その繰り返し。これは愛だ。コミュニケーションは愛なのだ。

彼は日雇い労働の後、ねぐらに帰る途中僕たちの演奏に出くわしたのだろう。
手にはワンカップと食べかけのパンがあった。
彼はそれを僕に渡し、「本当によかった。何て言ったらいいかわかんないけど、これやるから食べてくれ。飲んでくれ」そう言って帰りかけた。しかしすぐにまた戻ってきてポケットから缶コーヒーを出して僕の娘に渡した。
彼は「なんかなかったかな?もうなかったかな?」と自分の服をまさぐっていた。僕は涙が溢れてくるのをこらえながら、「もう十分ですから、本当に十分ですから」と答えるのが精一杯だった。

持たざるものは分かち合う喜びを知っている。
僕もその日暮らし、彼も(おそらく)その日暮らし。
これからもずっとこうでありたい。

悲しき鉄塔

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僕の父親は送電線工事の会社を経営していた。
その関係で僕は小さい頃から鉄塔の建設現場によく行った。

小さい頃は父につれられ遊びに(子供が遊ぶには危険すぎるところだけど。。)、
中学生ぐらいからはアルバイトとして、
何度もそしていろいろな現場に連れて行かれた。

鉄塔って意識して見たことありますか?
それはとても地味な存在だけど、
信じられないくらい遠いところから電気を運んでるんですよ。

それは町の中にもたってるし、海のそばにも、川のそばにも、山の上にもたっている。
そのレーゾンデートルは当然のことながら「電気を運ぶ」こと。

電気って今は我々にとってなくてはならないものになってしまっていて、
これが止まればとても困ることになる。

電気は発電所で作られるけどその原料はおもに石油と原子力。
日本にはこれらの原料はほとんどないから輸入に頼らざるをえない。

その原料を外国からせっせと持って来て、電気に変えて国中に送電する。
その電気は病院で生命維持装置を動かしたり、
冷蔵庫で魚を冷やしたり、
インターネットをつないだり、
恋人達のために夜景を提供したりする。

僕の父達は40年近く送電線工事に携わって来た。
僕もその一部をかいま見た。

工事はそれがどんな工事であれ、多かれ少なかれ自然を壊してしまう宿命にある。
それが山の中にある場合、時には爆薬で山の形を変えてしまわなければならないこともある。
道を作り、山を削り、木をむしり取りそれは行われる。

一度、群馬の山の中で工事をしていた時、
僕は忘れられない経験をした。
あたりで一番高い山の上にたまたまいた僕は、
鉄塔が見えなくなるまで続いている光景を目の当たりにした。

それは本当に遠くまで続いていて、電気を運ぶための送電線を支えている。
そして誰かの家や学校や仕事場や信号や駅や遊園地やレストランやデパートや
公園や教会やお寺や神社や銭湯や商店街や港や倉庫や、
とにかくありとあらゆるところにそれは運ばれて、
照らしたり、動かしたり、つなげたりしているのだ。

そんなことがいっぺんに僕の中ではじけとんで、
なんだか泣けて来てしまった。

拭いても拭いても涙が止まらなかった。
それぐらい悲しい程、鉄塔は続いていた。

遠い国から運ばれて来た原料から電気は生まれ、
誰かのもとに届く。
そして届いた瞬間それは消えてなくなってしまう。

あの時僕には鉄塔がひどく孤独なものとして目に映った。
届いた瞬間に消えていくものを必死に送り続ける運命を背負い、
それは今も立ち続けている。









湯気の記憶

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 僕の家の風呂は大きかった。一度に十人以上はいれる位大きかった。

 父が送電線工事の会社をやっていて、そこで働く人たちと一緒の場所で暮らしていたのでお風呂も大きかったのだ。
 
 送電線工事というのは、いわゆる鉄塔をたてるのが仕事です。仕事から帰ってきた人たちと一緒に僕もよくに風呂に入った。濛々と立ち篭める湯気の中に時々奇麗な「絵」が浮かぶ。背中に「絵」を書いている人が何人かいたのだ。鯉だとか女の人だとかの「絵」が湯気の中に浮かぶ姿はなんとも言えず美しかった。

 「おじさん、どうして背中に絵があるの?」とある日僕は聞いた。するとそのおじさんは「坊やも大きくなったら出てくるよ」と言った。しかし僕の父の背中には出ていない。そのことを問うと「出てくる人と出てこない人がいるんだよ」とおじさんは答えた。その時、一緒に風呂に入っていた男達が一斉に笑った。僕もつられて笑った。

 今のところ僕の背中にはまだそれは出ていない。それにしてもいい笑いだったなぁ、ほんとに。 

不思議な話

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10年ほど前、天河、高野山といったコースをキャンプして回ったことがある。しかも2年連続で。その時、2回とも天河というところでキャンプしたのだが、とても不思議なことが起こった。2回とも9月の初めに行ったのだが、2回ともその日にこのキャンプ場を利用したのは僕だけだった。

そこのおじさんが「お客さん運がいいですねぇ、昨日も明日もほとんど予約でいっぱいなんだけど今日に限ってお客さん一人だけですよ。テントサイト自由に使ってもらっていいですよ。」といってくれた。「へぇ、ラッキー」位にしかその時は思わず、三つ分のテントサイトを広々と使って優雅にアウトドアさせてもらったのだった。

さて、不思議はその夜中に起こった。12時か1時位だったと思うのだが、突然近くで犬が遠吠えを始めた。するとそれと呼応するように天河中の犬が(ほんとにそんな感じだった)あちこちで遠吠えを始めた。そんなに沢山の犬達の遠吠えを聞くのなんかもちろん初めてだったし、大体、犬の遠吠えというもの自体聞くのが本当に久しぶりのことでもあり、なんて言うか、ちょっと非現実的な感覚に陥った。

そこには「月に向かって吠えている」といったような雅びな趣などなく、尋常ではない「何か」に対する警戒発令といった感じの「緊迫」したものが含まれていた。「いったい何が起こったんだ」と訝る暇なく、その「何か」はやって来た。

最初、「キーン」というような高周波音が聞こえて来て、それを包むように「ゴー」という低周波音が聞こえて来た。具体的にいうと「とっても巨大な何かが、上空を極めてゆっくりと移動中」といった感じだった。犬達の遠吠えはますます激しく深刻さを増していき、僕といったら恥ずかしい話だが恐怖のあまりテントの外に出られなかった。その「何か」をこの目で確かめてみたいという強い衝動にかられたのだが、それは「飢えた熊がテントの外をうろついている」というのと同じ位リアルな恐怖感を僕に与え続けたのだった。

どれ位時間が経ったのだろう。やがてそれは遠のいていき、犬達も静かになった。

あれは一体なんだったのか?恐る恐るテントから這い出し、空を見上げてみたがそこには雲一つない星空が広がるばかり。「きっと、地形の関係で飛行機かなんかの音がああいう風に聞こえたんだ。何でもなかったんだ。」と自分に言い聞かせてはみたものの、釈然としないものが残った。

翌年、この話をしたら是非行きたいという人がいて、また同じコースを二人で辿ることになった。(この時は呆れる位「不可思議なこと」の連続だったのだが、詳しい話をすると「変な人」と思われるかも知れないので止めときます。)

さて天河に着いた。僕達は昼位に着いたのだが、近くを観光したかったので(天河には弁財天があるし近くには洞河という大峰山への巡礼の人達でにぎわった古い精進落としの街があって、名水も湧いている)まずキャンプ場を確保しようと例のキャンプ場にいった。すると、またおじさん(去年と同じ人だったか解らない)が「お客さん運がいいですねぇ、昨日も明日もほとんど予約でいっぱいなんだけど今日に限ってお客さん達だけですよ。テントサイト自由に使ってもらっていいですよ。」と去年と同じことを言う。「ほんとはこんな山の中にキャンプする人なんかいなくて、見栄張ってんじゃねぇか?」というのが偽らざるところだったのだが、確かにその時はテントサイトにまだいくつかテントが張られてあった。

そして夕方、僕達だけになったキャンプ場で、また三つ分のテントサイトを使って優雅にイタリア料理などを作り、星空を愛でながら食事、そしてログハウス風の天河温泉(前の年は確かなかったはず、こんなとこまで画一的都市化の波がと思ったが、キレイでなかなか良いお湯だった)でロング・ドライヴの疲れを癒し、さて、そろそろ寝ましょうかとテントに潜り込みしばらくたった頃、突然「ビュン」という風が吹いたと思いきや、文字どおり「空の底が抜けたような」大雨が襲ってきた。それはまるで大型で強力な台風の真只中に突然ワープしてしまったとしか言い様のない状況だった。「いったい何が起こったんだ!」なんて悠長なこといってられるような段階ではない。タープもテントも吹き飛ばされそうだし(実際、タープを張っていたロープのほとんどは根こそぎになっていた)何より恐怖なのはすぐ側を流れている川がみるみる増水してきたことだった。これはすぐ避難しなければならないと取るものも取りあえずテントを飛び出したら突然、「嵐」は止んでいた。

文字どおり嘘のように。

それはまるでフルトベングラー指揮のベルリンフィルが、その演奏の佳境でホールから突如消滅してしまったとでもいうような感じで。残響さえ残さずに....完全に。

空は雲一つない満天の星空。夢か?と思ったが夢ではない証拠にタープはほとんど吹き飛ばされていたし、僕達をたぶらかそうと急いで地面にしみこもうとしている大量の水を僕は見のがさなかったし、何より黒グロと増水した川は誰が何と言ってもさっきの「嵐」が夢ではないことを物語っていた。

「一体なんなんだ?」

僕達はもう一度タープを張りなおした。二人とも無言だった。辺り一面、虫達の声。「虫達の声?」だいたいあれだけの強風にさらされてなんでこの虫達は踏み止まれたのだろう。それともここにいた虫達はすべてどこかに吹き飛ばされて、今ここにいる虫達はどこかから飛ばされてきたんだろうか?僕には解らない。

まったく、やれやれという感じの夜であった。

運命

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「運命」とは「生まれ落ちた時から既に定まっている人生のプログラム」といったことを意味する言葉だと思う。

では何が「定まっている」のかというとそれは「すべては偶然である」ということが定まっていて、つまるところそれが運命なのだと以前悟った。


それまでは普段の生活を「毎日同じ事の繰り返し」と感じていた。
でも空の雲はひとつも同じものはないし常のその形を変えていく。
胸の中で死ぬまで脈打ち続ける心臓も一度として同じ打ち方をしない。
一度も同じ空気を吸うこともなければ同じ光に当たることもない。
人生は実は未知との出会いの連続なのだと学び、実感し、受け入れた。

「予想通り」といっても厳密には、非常におおざっぱなことを空想するだけなんだよね、実際。

「未知との出会い」を楽しめるようになるといろいろ楽になる。
苦労の面白みもなんとなく分かるようになる。

この「なんとなく」が結構鍵なのだ。

「お先真っ暗」はそうとう楽しい。
実際、生きてりゃ何とかなる。
だから自殺はいかんよ!!!

怖い人

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二十歳ぐらいの時、深夜に友人と三人で横浜の焼き肉屋さんに行った。焼き肉屋さんと行ってもU字型のカウンターがあるだけのシンプルなつくりで、その当時の横浜にはたくさんあった安くてうまい店のひとつだった。

そのときのお客は僕たちと和装で女装の男の人(意味わかりますか?)だけだった。

彼(彼女?)は焼き肉を食べにきたというよりお酒を飲みにきたという感じだった。艶やかな姿と毅然とした物腰。
その光景は僕の中に非現実的なほどの生々しさをもって刻みこまれた。

しばらくすると彼女(彼?)は「はばかり」に立った。
その店の「はばかり」は僕たちが座っている側の奥にあったのだけど、通路が狭いので、彼(彼女?)が通る時、僕たちは席をずらして道をつくった。

彼女が帰ってきた時、また僕たちは席をずらして通り道をつくった。

その時に彼女と目が合った。
彼女は僕の目を見つめていた。
それはとてもとても不思議な目だった。

その「目」は僕を見ながら全然僕を見ていなかった。
その「目」は僕を通して僕の背後にあるものを見つめていた。
その「目」は僕に別の宇宙の存在を実感させた。
その「目」は僕に大事な預言を伝えようとしているようだった。
その「目」は僕が忘れてしまった大切なものたちとコミュニケーションしていた。
その「目」は僕を全く知らない人にした。

やがて彼女はこう言った。
「怖い人」。。。。。

僕は突然現実に引き戻された。その予期せぬ言葉は僕を激しく混乱させた。

「怖い人?俺が?」

考えれば考えるほど訳が分からない。

僕は確かに「優男(やさおとこ)」でないけど、入れ墨もなければ目つきだって悪くない、それどころか「竜路さんの目って熊のぬいぐるみみたい」と言われたことだってある!いや、あったような気がする。。。。そういう記憶がうっすらとある。。。。

何故? どこが? どういう風に?

僕はいろんな人に意見を求めてみた。
それぞれの分析はさまざまだ。

『それは竜ちゃんに一目惚れしたってことだよ、きっと。怖いぐらいに惹かれるって言いたかったんじゃない』
(この説が一番多い、この説の支持者は決まってニヤニヤしながら自説を展開する。)

『明かりの関係で怖く見えたんじゃない?』
(う?ん?)

『榎田君の顔って、結構怖いよ』
(むむむっ、気にしていることを……)

『酔っぱらってたんじゃない?』
(人の話をちゃんと聴かないタイプ。すぐ違う話をしだす。) 

『榎田君って一人っ子だったんでしょ?その人さぁ、もしこいつとつきあったらって一瞬でシミュレーションしたんじゃない。そういう人って勘がいいっていうからさ?、榎田君のわがままなこと見抜いたんだよ。だいたいひとりっこていうのはさぁ?…….』
(この人はここから延々と「一人っ子」とはいかに我が儘で自分勝手な生き物かということを語ってくれた。この経験をしてから、あまり人に話さないようになった。だって長いんだもん、話が。。。)

あんな目で見つめられたのは後にも先にもあの時だけだ。

僕ではない僕というのか、僕の意識の範囲を越えて存在する「僕」と彼女は確かに繋がっていた。

本当に不思議な『目』だった。

あれからずいぶん経つけど、あの時味わった感覚は忘れることができない。

彼女が僕の瞳の奥に見たものを僕も覗いてみたい。
かなり怖いけど。。。

腹を作る

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いくら頭で「前向き」に考えようとしても、
いくらいいイメージを心に描こうとしても、
うまくいかない時がある。

いやむしろうまくいかない時の方が多い。

それは何故か?

望みが強ければ強い程、
「望み通りにいかないかもしれない」
という不安、不信の心に苛まれた経験は
誰でもあると思う。

前向きに考えていてもいつの間にか、
それがうまくいかない要因ばかりが心に浮かぶ。

よいイメージを心に描いていたはずなのに、
いつの間にか最悪の状況を想像している。

そして「私はなんて心が弱いんだろう」と自己嫌悪と自己不信の無限循環に陥るパターンにはまっていく。

僕も長い間ここにはまっていた。

考え方や感じ方を「心」の問題と捉えること自体に無理がある。
心というのはいつも捉えどころがなく、無限に自由に、矛盾を生み出していく働きそのもので、意識で制御しきれるものではないし、まただからこそ大きな力を生み出す源ともなり得る。

僕は今必要以上に落ち込むことはなくなった。
また失敗しても自己嫌悪に陥ることもなくなった。

心も考え方もそれを支えているのは身体で、
追求すべきは身体感覚ということに行き当たったのだ。

自分を「心の有り様」の中に求めることをやめて、「身体の有り様」に求める。

それを教えてくれたのは他でもない日本の伝統的な暮らし方の中で育まれて来た身体の使い方だった。

伝統的な身体の使い方といったって別に特別なことではない。

一言で言うと「一点で動く」ということで、それを言い換えれば「中心で動く」ということになる。

これは我々の生活の中のどこをとっても息づいていた。

座り方、箸の持ち方、歩き方、筆の持ち方、話し方、帚のかけ方、重いものの持ち方、軽いものの持ち方、鍬の使い方、刀の振り方等々。

今はほとんど崩れてしまったその動きの中に、世界史的に非常に貴重な身体運用法の粋があった。

作用点を意識しない、反動を用いないというその動きは人生のあらゆる場面に有効で、その動きを可能足らしめる感覚の有り様は我々の文化に深い陰影を残している。

明治維新と敗戦の二度にわたる「文化革命」でその「感覚の有り様」はゆるやかな滅亡の危機に瀕している。

ではどうしたらその感覚を獲得し、駆使できるようになるのか?

答えはいたって簡単で「腹を作る」という一言に集約される。

僕は自分の下腹にソフトボール大の鉛のように重く力強い感覚をいつも感じることが出来る。いつからこうなったのかは忘れてしまったけど、この感覚はどんなに体調の悪い時でもなくならない。

このおかげで僕は「私はなんて心が弱いんだろう」という自己嫌悪と自己不信の無限循環に陥るパターンから無縁になった。

腹が出来るとどこにでも中心を持つことが出来る。

ただし腹の作り方は、正しく教えられる人に習うことを御勧めします。

補助輪

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よく「あの頃に帰りたい」という言葉を耳にする。しかし僕には帰りたいあの頃というものが存在しない。もちろん懐かしいあの頃というものはある。だけどもしタイムマシーンかなんかあって、好きな時代に行けると言われても僕は決して行かないだろう。あの頃とは懐かしむためのものだからだ。

 今日はその懐かしい話。

 皆さん自転車に初めて乗れた時のこと憶えてますか? 一度乗れてしまうとなんでもないことだけど、乗れないうちは「なんでこんなものが立って走れるんだ?」「自分は一生自転車になんか乗れないんじゃないか?」と幼い胸を痛めた人も多いのでは?

 僕もその口で、なかなか補助輪をはずすことが出来なかった。友だちはどんどん補助輪を卒業していくのに、僕は補助輪無しでは1mも進むことが出来なかった。人に押してもらったりしても、押してもらっているうちは走れるんだけど手を離されるととたんにこけた。

 他の友だちは補助輪無しの自転車で颯爽と遊びにいくのに、補助輪をガラガラ鳴らしながら附いていくのは格好悪くてしようがなかった。

 しかし、そんな僕にも「その日」はやって来た。

 ある日、僕はいつものように校庭で自転車の練習をしていた。最初のうちはつき合ってくれていた友だちも僕のあまりの進歩のなさに呆れてどこかに行ってしまった。仕方なく僕は補助輪付きの自転車で一人黙々と練習を続けていた。しかし、手伝ってくれる友だちがいないので補助輪をはずした練習は出来ない。
 校庭を何かに憑かれたようにガラガラと音を立てながらただ走る。ふと校舎の時計を見ると4時になろうとしていた。「あっ、しまった」僕は慌てた。僕のその当時の門限は4時だったのだ。僕の母は時間に厳しい人で、約束の時間までに帰らないとひどく叱られた。当然すぐに帰らなければならない。しかし、御承知のように補助輪がついた自転車はあまりスピードがでない。それでも僕は全力疾走で校庭を飛び出して家に向かった。

 僕の学校は高台にあった。校舎を出るとすぐ長い直線の坂道があった。当時は確かまだ鋪装されていないデコボコ道だったと思う。その坂道をまっしぐらに駆け抜けねばならない。坂を下り出すと今まで出したこともないようなスピードになってしまった。僕は恐怖した。恐くてへたにブレーキもかけられない。

 しかし、なんかいつもと違う感じがする。良く分らないけど自転車に乗っている感じがいつもと違う。気付くと僕はどちらの補助輪も接地させずに2本のタイヤだけで走っていたのだ。それこそ飛ぶような気持ちだった。さっきまであんなに恐かったスピードも、もうコントロール可能の領域に入っていた。もっともっとスピードを上げるため僕は必死にペダルを踏み続けた。

 家についてから早速補助輪をはずしてみた。誰かに押してもらっていないと1mだって走れなかったのに、今度は簡単にこぎ出せた。ほんのちょっと前まで全然だめだったのに今思い出しても本当に不思議だ。
一体、何が起こったのか?

それも一瞬のうちに。

 僕の娘がハイハイを始めてしばらくしてある日突然立ち上がった。ゆらゆらとバランスをとりながらほんの一瞬だったけど一人で何にも掴まらずに立てた。その時、彼女は非常なハイ状態になっていて、歓喜の声をあげていた。それに味をしめたのか何度も立ち上がろうとするようになった。そしていつの間にか歩こうとし始めた。まだろくに立てないのに前へ進もうとするのだ。そしてそのうちよちよち歩きができるようになった。
するととたんにハイハイをしなくなった。

 よちよち歩きでどこへでもいこうとする。よっぽどハイハイで行った方が楽だろうに、何度も尻餅をつきながらやっていた。そしてやがて階段も自由に昇り降り出きるようになった。

 不可能が可能になる瞬間は突然訪れる。もちろん事前の努力も必要だ、いくら努力してもその瞬間が来ない限りそれは起こらない。「それ」を起こすためには努力とは別のファクトの何かがいるのかもしれない。

 あの時の補助輪は目に見えた。そして運良く外すことが出来た。でも僕は時々思うのだ。目に見えない補助輪がもしかしたらどこかでガラガラと音を鳴らしているのかも知れないと。

揺らがないもの

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揺らがないもの

それが出来るか?
本当にそうなるか?
と思えば気持ちが揺らいでくる。

何かを強く願うと、二つのベクトルにエネルギーが放たれる。
成功と失敗、獲得と喪失、勝利と敗北、出会いと別れ、信頼と不信、貯金と借金 etc. . . . . .

願いが強ければ強い程、不安も強くなる。

これが厄介だった。。

でも自分をよく感じてみると
「そうなればいい」と思う気持ちは微塵も揺らがないということに気づく。

それは弱くもならないし強くもならない。
増えもしなければ減りもしない。

だから「そうなればいい」だけを頼りにした方がいいんじゃないかなと思うようになり、その時からそうやって生きてきた。

揺らがないものを頼りに進んだほうが自然だ。

揺らぎはじめたら元に戻る。
すると次がちゃんとやって来て、智慧が湧き人が集まる。

来るもの拒まず、去るものどこまでも追っていく

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「来るもの拒まず、去るものどこまでも追っていく」

私の生き様は、つまるところこの一言に集約されるようです。

いつからこうなったか、
それは2001年の10月12日からです。

何故日付まで明確なのかというと、その日はそれまで住んでいた家が火事で全焼してしまった日だからです。

原因不明の昼間の火事でした。

火事というのは恐ろしいもので、
持っているのは今着ている服と乗って出た車と
たまたま持ち出したギター一本ということになり、
その晩寝るところもないという状況に突然陥ります。

その時意識の大転換が起こったのですが、それはまた今度の機会にでも書きます。

それまでは、「来るものは選り好みし、去る者はあっさりと忘れちゃう」というような生き方だったように思います。

しかし火事になると選り好みしている余裕も、拒む暇もありません。ただただ淡々と立ち向かうしか他なくなります。

それに一度強く心に決めた事を簡単に諦めることなどできなくなります。

休みたいとも思わなくなるし、「これは私の天職か?」なんていう優雅な自問をする事もなくなります。

大変だけどうまく行く。

面白いですね。。

螢の光

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昔すんでいた家から、車で10分程のところにワサビを栽培している処があった。かなり大量の湧き水が湧いているのだ。この季節、僕は毎年ここに螢を見に行くのを楽しみにしていた。

 螢の光は不思議な感覚を僕にもたらす。

 以前、愛知県の東栄町というところに行った時の話。
 
 その時、僕は、夜の10時位に山の中の道を歩いていた。もちろんその道に街灯などなくて、人家からも遠く離れているので星明かりを頼りに歩くしかなかった。すると、螢が数匹あらわれた。
 
 その螢の光に意識を向けていると、今まで星明かりで辛うじて見えていた道や景色が何も見えなくなってしまった。ただ、その螢の光だけが虚空にユラユラと浮かんで、静かに明滅を続けている。目を他に向けるとまた、まわりの景色が現れて来る。螢に意識を向けるとまわりの景色は消えていき、闇の中に螢の放つ柔らかな光だけが浮かび上がって来る。

 そんなことをくり返して遊んでいたら、だんだん妙な心持ちになって来た。なんて言うか、その螢の光が自分の外で光っているとは思えなくなって来たのだ。その光は僕の頭の中で行われている精神活動そのものにも見えるし、誰かからの特別なメッセージを伝えているようにも見えた。僕はその例えようもなく美しい光に託されたメッセージを読み取ろうとして、随分ながいことその場に佇んでいたらしい。ほんの10分位にしか感じなかったけど、実際は2時間以上経っていた。

 螢はキレイな水のある処にしか住めない。昔は、僕の住んでいたところにある田んぼにもいた。母の実家の鹿児島にいたっては、それこそ星の数程いた。幼い頃の僕に「あれは星のかけらだよ」と誰かが言ったとしたら、きっと僕は信じただろう。でも今はもう、ほとんど見なくなってしまった。鹿児島でさえ随分減ったんじゃないかと思う。

 人は光のあるところに集まるらしい。例えばガソリンスタンドの隣に新しくガソリンスタンドをつくる時は、隣の店より20%から30%位、照明を明るくするらしい。そうすると不思議なことに新しい方の店にお客さんが集まってくるという。新宿や渋谷に人が集まるのも、もしかしたらこの原理かもしれない。人気者のことを「スター」と呼んだりするのもそうだろう。でも何も自分以外のモノにばかり光を見い出すことはない。ちゃんと自分の中にも「光」はあるのだ。それは螢の光のように儚く見えるかも知れないけど、我々は「星のかけら」のはしくれなのだということを思い出させるのには十分な程に美しく、存在感に満ちている。

 光は派手で明るければ良いってもんじゃない。もう「まやかし」はうんざりだ。「普通の光」が一番良いに決まってる。みんなが普通に持っている光が一番美しい、と僕は思う。

 あの夏、奥三河の山の中で出会った螢とその美しいメッセージは僕にそう語りかけていたのかもしれない。

もったいない

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朝の鎌倉はよく晴れている。
まだ冬の名残が消えきれない風に吹かれていたら、子供の頃のことを思い出した。
僕の父は送電線工事の会社を経営していた。僕の子供の頃は会社の創業期で、父も母も必死に働いていた。地方の山の中での工事が多かったので、母は水道のないところで50人くらいの人たちの炊事洗濯を全部ひとりでやっていたそうだ。当然寝る間もないほど働いているので、ついつい僕から目を離しがちになる。僕はその頃(今もそうだが)一所にじっとしていられないたちで油断すると丸太の橋をはいはいしたり、池に浮かんでいたり(!)したそうだ。これではたまらんということになって鹿児島の祖母のところにあずけられることになった。
その当時の鹿児島は本当に美しかった。植物も虫も何でも大きくて、水はそこかしこから湧いていてしかも美味い。川に泳ぎにいって最初に出会うのが大きな亀だったりする。テレビゲームも何もなかったけど楽しかった。心の底から愉快だった。お日様も風も風景も木も森もすべてが美しかった。
人生にぴったり寄添っていたという感じかな。。
本当に必要なものは自然が全て用意してくれている。
いらないものも欲しがらされて、欲しい欲しいと言っている。
変な世界になったもんだ。
今日の風に吹かれていると「もったいない」という言葉が聴こえてきた。
祖母の口癖だ。ものを粗末にするとひどく叱られた。
でも今日の風の中の声はこういっていたようだ。「人生を無駄遣いするなんてもったいない」と。

真荷舟という舟

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偶然と必然の境が揺らぐ時、世界はその真の姿を現わす。
「真荷舟 まにふね」というコトバは連日の作曲で極度の疲労に落ちいったある夜、もうろうとした意識で無意識に打ったキーボードのタッチから生まれた。モニター上に浮かび上がったそのコトバは不思議な存在感を持って僕の記憶に刻まれた。そしてそのコトバは今、確かな鼓動を打ちはじめている。

胡蝶の夢
子供のころ、時間はいつ始まったのか?宇宙はどこにあるのか?という根源的な疑問に悩まされた。三次元に生きる身のはかなさで、すぐに思考限界に陥り、その答えは得られなかった。そして答えの代わりにいつも必ず激しい恐怖に襲われた。その恐怖は死であり闇であり無であった。

水のめぐりに
同じく子供のころ、小さい小川を見つけると必ずその源まで辿らずにはいられなかった。突然地面から姿を現わす水。あるものは砂を舞い上げながら、あるものはポコポコと音を立てながら慎ましやかに世界に加わっていく。それを眺める度、私は激しい喜びに打ち震えた。その喜びは生であり光であり愛だった。

メッセージ
ある朝、不思議な夢を見た。そこでは世界の全てが音だった。無数の鈴が響きあってなっているようなその音は僕にこう呼び掛けていた。
「アナタガ ソンザイシテイルトイウ ソノ ハカリシレナイ ヨロコビヲ シリナサイ」

生と死を分かつもの
私は高校生の時、バイクの事故で死にかけた。その後遺症を克服するのに20代のほとんどを費やしたといってもいい。
その時私はバイクの後ろに乗っていて突然道を塞いだ車に衝突した際、その車を飛び越えてアスファルトにたたきつけられた。しばらく何か狭いところに閉じ込められたような感じで音がぐるぐる周りを巡っている。
すると突然、潮の香がした。

「あ、そうか海のそばを走っていたんだな、いい香だなぁ」

そう思った瞬間、ぐるぐる巡っていた音が「大丈夫ですか?」というコトバに変わった。男の人が懸命に呼び掛けていてくれたことにその時気付いた。
後で知ったことだが、人が生きるか死ぬかの瀬戸際にある時、いい香りを感じられるかどうかということがその行方を知る手がかりになるらしい。

20歳になってこの交通事故の後遺症が様々な形で現われた。病院をたらい回しにされ、ヨガや呼吸法、気巧等の道場にかよったが自分にあわなかったのか、ダメだった。ほとんど寝たきりの状態になった時、友人がある身体技法の稽古場に連れていってくれた。そこで様々なこと学び、また音楽を始めることができるようになった。

チャンネルを変える
そこで学んだことの大きなもののひとつに「チャンネルを変える」ということがある。どんなに不調でも自分の中に「元気」なものを見つけだすことができれば身体は変わる。身体が変われば自ずから人生も変わる。
西洋医学の提示するものとは根本的に異なる生命観、身体観に最初は戸惑いながら稽古を実践していく過程でそのことの正しさに気付いた。もちろんそれは簡単なことではないが、いわゆる「良い状態をイメージする」とか「前向きに考える」とかいうのとは根本的に違う状態を生み出す。

自分の中に全てが反映されている。自分の中に「それ」を見出した瞬間に世界は変わりはじめる。

何があるのか?
2001年の10月、家が火事になった。原因不明。昼間の外出中に火が出て、偶然早く帰宅した近所の人が発見してくれたおかげで周りの家は燃えなかった。
生命(家族、たまたま連れて出た犬、ネコ達)は助かったけど、乗って出かけた車と着ている服、そして本当に偶然持って出たギター1本以外ほとんど燃えてしまった。その日寝るところもなくなってしまった。
しかし不思議なことに身体の奥底からものすごい元気が沸き上がって来た。
そして実感した。

「一体何があるのか?」

そして大きな潮流に自分達が乗っていることに気付いた。始めから乗っていたことに気付いた。

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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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