ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

来るもの拒まず、去るものどこまでも追っていく

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「来るもの拒まず、去るものどこまでも追っていく」

私の生き様は、つまるところこの一言に集約されるようです。

いつからこうなったか、
それは2001年の10月12日からです。

何故日付まで明確なのかというと、その日はそれまで住んでいた家が火事で全焼してしまった日だからです。

原因不明の昼間の火事でした。

火事というのは恐ろしいもので、
持っているのは今着ている服と乗って出た車と
たまたま持ち出したギター一本ということになり、
その晩寝るところもないという状況に突然陥ります。

その時意識の大転換が起こったのですが、それはまた今度の機会にでも書きます。

それまでは、「来るものは選り好みし、去る者はあっさりと忘れちゃう」というような生き方だったように思います。

しかし火事になると選り好みしている余裕も、拒む暇もありません。ただただ淡々と立ち向かうしか他なくなります。

それに一度強く心に決めた事を簡単に諦めることなどできなくなります。

休みたいとも思わなくなるし、「これは私の天職か?」なんていう優雅な自問をする事もなくなります。

大変だけどうまく行く。

面白いですね。。

螢の光

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昔すんでいた家から、車で10分程のところにワサビを栽培している処があった。かなり大量の湧き水が湧いているのだ。この季節、僕は毎年ここに螢を見に行くのを楽しみにしていた。

 螢の光は不思議な感覚を僕にもたらす。

 以前、愛知県の東栄町というところに行った時の話。
 
 その時、僕は、夜の10時位に山の中の道を歩いていた。もちろんその道に街灯などなくて、人家からも遠く離れているので星明かりを頼りに歩くしかなかった。すると、螢が数匹あらわれた。
 
 その螢の光に意識を向けていると、今まで星明かりで辛うじて見えていた道や景色が何も見えなくなってしまった。ただ、その螢の光だけが虚空にユラユラと浮かんで、静かに明滅を続けている。目を他に向けるとまた、まわりの景色が現れて来る。螢に意識を向けるとまわりの景色は消えていき、闇の中に螢の放つ柔らかな光だけが浮かび上がって来る。

 そんなことをくり返して遊んでいたら、だんだん妙な心持ちになって来た。なんて言うか、その螢の光が自分の外で光っているとは思えなくなって来たのだ。その光は僕の頭の中で行われている精神活動そのものにも見えるし、誰かからの特別なメッセージを伝えているようにも見えた。僕はその例えようもなく美しい光に託されたメッセージを読み取ろうとして、随分ながいことその場に佇んでいたらしい。ほんの10分位にしか感じなかったけど、実際は2時間以上経っていた。

 螢はキレイな水のある処にしか住めない。昔は、僕の住んでいたところにある田んぼにもいた。母の実家の鹿児島にいたっては、それこそ星の数程いた。幼い頃の僕に「あれは星のかけらだよ」と誰かが言ったとしたら、きっと僕は信じただろう。でも今はもう、ほとんど見なくなってしまった。鹿児島でさえ随分減ったんじゃないかと思う。

 人は光のあるところに集まるらしい。例えばガソリンスタンドの隣に新しくガソリンスタンドをつくる時は、隣の店より20%から30%位、照明を明るくするらしい。そうすると不思議なことに新しい方の店にお客さんが集まってくるという。新宿や渋谷に人が集まるのも、もしかしたらこの原理かもしれない。人気者のことを「スター」と呼んだりするのもそうだろう。でも何も自分以外のモノにばかり光を見い出すことはない。ちゃんと自分の中にも「光」はあるのだ。それは螢の光のように儚く見えるかも知れないけど、我々は「星のかけら」のはしくれなのだということを思い出させるのには十分な程に美しく、存在感に満ちている。

 光は派手で明るければ良いってもんじゃない。もう「まやかし」はうんざりだ。「普通の光」が一番良いに決まってる。みんなが普通に持っている光が一番美しい、と僕は思う。

 あの夏、奥三河の山の中で出会った螢とその美しいメッセージは僕にそう語りかけていたのかもしれない。

昔のインタヴュー

何年か前に受けたインタヴューです。

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13歳の時に始めてギターを手にした。高校生の時にバンドを、その時はロックをやっていて、ロックでスターになって、有名になって、暮らしていこうってふうに思っていたんだよね。能天気に。それで、実際に19歳の時にプロデビューして、でも21歳の時に引退しちゃったんだよね。それは、高校3年生の時に、ひどい交通事故を単車でやってしまって。首をその時やっちゃったのね。その時はまあ、何とか大丈夫だったんだけれども、20歳くらいから体の様子が変わってきたの。ギターを弾けるとか、そういう状態じゃなくなってきちゃったんだよね。
そんなこともあって、音楽活動は21歳の時には停止しちゃったんだ。

デビューは、歌でデビューしたんだ。しかも、レゲエを歌わなきゃいけなくって。ある有名なスタジオミュージシャンが集まって、沖縄の久米島ってところに行ってね、コンサートをやるっていう計画をしてたみたいなんだよね。ところが、ボーカルで行くはずだった人が行けなくなっちゃて、急遽誰かいないかっていうことで、それでたまたま僕のところに来て、それで行ったのが結局この道に入るきっかけになったわけなんだよね。

沖縄の時に、それは今でも忘れられない体験で、今までは音楽のメッセージとか、そういうことはあまり気にしない、っていうのは変だけれど、とにかくかっこよければいいと。かっこいいビートで、かっこいいサウンドで、とにかくそのノリって言うのが好きでやってたんだけど。ボブ・マーレーっていう人の歌を歌わされることになったの。

今まではレッド・ツェッペリンとか、ディープ・パープルとか、そういうのばかり歌っていた人間が突然ボブ・マーレーったって、全然違うじゃない。それで、歌詞覚えなきゃいけないんで、レコード買って、最初は、何だ、変な音頭みたいな、なんだろうなレゲエっていう感じだったんだけれど、ずうっと聴いてくうちに、今までの音楽とは違う領域っていうものが他にもあるっていうきっかけを教えてもらったって感じだった。

たまたま、ボブ・マーレーは、平和に愛し合って生きようってことをいっていた人で、僕が行った久米島っていうのは、後で聴いたんだけど、太平洋戦争の時に玉砕があった島で※。その時にね、19歳で、大学も行ってたんだけれども、何ていうか、とんとん拍子にプロの道に乗っていったわけだよね。有名なスタジオミュージシャン達といっしょにプレイしてるわけだから、今まで学生とプレイしていたのが急にごーんとレベルが上がって、僕の10も20も年上の人たちだから全くの大人だしね。自分が子供だったっていうのもあるけど、ものすごいはしゃいでたんだよね。

沖縄だし、女の子はみんな水着だし。だけど、ある時自分の顔が変わるくらいの事件があって。久米島には3週間くらいいたんだけどね、地元の人たちに「洞窟行かないか?」っていわれて、連れて行ってもらったの。

すり鉢式の洞窟でね、その底の部分の横に穴があるくらいの小さい洞窟で、階段で降りてくんだけど、階段のところにさ、ハブかなんか檻に入れちゃっててさ、ワイルドな感じだったんだけど。降りていって、洞窟に着いたんだよね。それでもう全然能天気だから、ほんとにただはしゃぐだけで行ってたんだけど、ふと洞窟の壁が黒いことに気がついたわけ。なんだろなこれ?って思って手ですうーって取ってみたわけ。煤なんだよ。その時にね、凄く不思議なことが起こってね。

何ていうか、涙腺が壊れたの。涙がぶわーって、止まんないの。ぽろぽろじゃなくて、凄いんだよ。涙腺が壊れたっていう表現しかしようがないんだけども。それでね、そこで何が起こったかが瞬時に分かったの。つまりそこに、島の人たちが逃げ込んだんだよ。でもアメリカ軍がやってきて、火炎放射器で焼き殺しちゃったのよ。その煤がまだ残ってたんだよ。その時にね、何ていうのかな、自分の中で、何で自分が生きているのかっていうことが、頭をもたげてきたわけ。それまでは、とにかく速くスターになって、お金持ちになって、いい車に乗って、きれいなお姉さんばっかり周りにはべらして、っていうことしか考えてなかったんだけれども、そういうものに対する価値観が変わってしまったのね。その時全てが変わったんじゃなくて、それをきっかけにだんだんだんだん時間をかけて変わってきたと思うんだけど。

沖縄で覚えてるのはそのことだけ。星が綺麗だったっていうのとかも覚えているけど、あの時のことは今でも忘れられない。

両親が小さい会社をやっていたんだ。僕は一人っ子だから普通は跡取りだよね。でも、どうもそれは自分は向いてないと思っているわけ。そのことで凄く苦しんだわけ。だって、僕が継がないと会社が終わってしまうでしょ。そうすると従業員どうするとか、そんなことまで考えて、大変だったんだよね、20代は。

体のこともあって。今思うと、沖縄の出来事の前までは、自分は音楽が表している一部のものにしか目が行ってなかった感じがする。きらびやかなもの、人よりも目立つもの、っていう感じかな。かっこいいっていうことだよね。でもその愚かさっていうものに気付いてしまったわけ。ただ不良のフリして、自分をかっこいいと思ってるっていう感じでいたんだけど、やっぱりそれはいつまでも続かないよね。ほんとうに困っちゃって、どうしたらいいか。でも音楽は続けたい気がするわけ。だけど、ギターも弾けなくなっちゃったし、歌があるっていっても、なんか、うまく行かないんだよね。結局またやり始めるのに、10年ぐらいかかってるわけだよね。

10年間は、ギターは持ってたから、練習もするし、曲作ったりはしてるんだけど、最後まで生み出せないんだよね。いっぱい迷ってるわけ。自分の中で。音楽はやりたいんだけど、生活はどうする、っていうことがあって、家継ぐか、とかさ、勉強して資格とっちゃおうかとか、真剣に考えるんだけども、それは何で考えるかっていうと、人から見た自分っていうのを常に前提に置いて生活していたから。例えば、弁護士になったらかっこいいだろうとか、大学の先生だったらかっこいいだろうとか。自分の体が調子悪くなったのもあるんで、少しでもステータスのあることをやらなきゃいけない、って自分に課していたんだよね。でも、ほんとうはやりたいって思っていないことだから、やっぱりそれは実現しないわけ。絶対に。

本格的に音楽を始めたのは結婚してから。33歳の時か。それまでは色々生き迷ってたなぁ。でもそこで氷解した問題があって、どんな音楽をやりたいんだ?っていうことになってきて。その時にはクラシックとか、ジャズとか、色んな音楽を聴くようになっていて。そうするとこう、自分がこれが音楽だってやってきたものが、実はほんとうに狭い世界のものでしかなくて、たまたま資本主義の商品として乗っかってたからそれが力強いものに感じていたんだけれども、でも、例えばアフリカの民俗音楽を聴いたときに、村で、誰かが一声かけると、それに誰かが一声返して、そうするとそれに誰かが太鼓を入れて、ってなって、みんなで竹たたいてってなると、物凄い何かが生れてくるのね。その自然発生してくる力強さっていうのを、こういうものを実際やりたいんじゃないかなっていう思いが、出てきたんだよね。

ボブ・マーレーはいい。ジョン・レノンも素晴らしい。だけども、自分には自分の歌がある、ってことに気付くわけよ。だからああいう人たちは、そういうことを気付かせる為にいるんだと思うよ。俺の歌が一番だっていうんじゃなくて。自分の歌を聴いてみよう、って感じだと思うんだよね。自分の歌って言うのは、「自分の内なる声」に置き換えてもいいかもしれないよね。僕はね、それに全部従うことに決めたの。全部。かなり勇気いったけどね。生活どうするんだ?っていうのもあるし。それは現代の人に共通した、恐怖感だよね。たいしたこと無いんだよ、ほんとうは。たいした事ないよ。ほんとに。

こんな生活をしたいっていう生活が、本当に望んだ生活なのか。こういう家建てて、こういう車乗って、こういう服着て、そういうスタイルを求めて、そこにはめ込むと、ある種安心感があるから、それが欲しいわけ。どうしても。ところが、時々スタイルにはまらない人がいるんだよね。もとからスタイルにはまれないっていう人が。

例えば俺もそうだけども。そうすると、非常に苦しくなる。ああしなきゃいけないんじゃないかとか、こうしなきゃいけないんじゃないかとか、そう思うわけよ。でも結局は自分の内なる声が勝つんだよね。で、それに従っていくと、こうなっちゃったわけ。不思議なもんでね。でもそれがなかったわけ。20代のミュージシャンの頃は。自然発生じゃない。それはかっこいいかもしれない。

でも実際やってみな。50年経ってテレビで自分の歌ってる姿観て、その時でもかっこいいって思えるか?って考えた時に、思えないと思った。なんでかっていうと、そこに演技があるから。自然じゃない、不自然なものがあるってことに気付いたわけ。不自然なことを一生追いかけるのはきつい。絶対きつい。自分に嘘つき続けることでしょ。
だから選んじゃったわけ。でも、それを選んだのは、結婚したおかげ。

普通は結婚したら逆でしょ?ほんとはそうだと思うよ。でもね、僕は28歳の時に、父親の会社に入ったの。それはね、体が言うこと聞かなくなっちゃって。大学出ているんだから、経理でも何でもできるだろって。だから僕は経理もね、社会保険関係もできるんですよ。たたき上げでやったから。もちろん、どこの会社でもできるってわけじゃなくて、その感覚があるんだよね。鍛えたから。

でも、女房と結婚して、ある時女房が俺に向かってね、「竜路さん、会社辞めたら?」っていうんだよ。「何でだ?」って聞いたら、「向いてない」っていうわけ。「辞めて何するんだ」っていったら、「音楽やればいいじゃない」っていうの。怖かったよ。その声聞いて。でも、出来ないって言えないのよ。女房の手前だから。それで、ちょうど父親が、送電線関係の建設会社をやってたんだけど、電力業界自体が、もう全部鉄塔を建てきっちゃったわけよ。

そうすると今度はもう、今までの技術者では仕事がないわけ。そのことを見越して従業員の行き先見つけて、会社をたたんじゃったんだよ。実際はどうにか会社を残したいっていう考えだったんだけど、どこかで転換して、鹿児島帰っちゃった。そしたら今度は一人だ。親もいない。会社もない。それから今までどうやって食いつないできたか、不思議なくらいだよね。覚えてない(笑)。

だから、僕はほら、元気に見えるでしょ?それは、元気なんだよ。実際。人間って元気なんだよ。ま、タイプはあるよ。静かな元気もあるしさ。でも俺もね、20代の頃はさ、こう、クールなのがかっこいいって宣伝されるから、クールなのがかっこいいと思うわけ。何でかっていったら、女の子も「クールな人がいいわよね」っていうから。でも実際は、ある程度の年齢を超えると、顔も何もなくなっちゃうんだよね。そいつの生命力だけなんだよね。優しい人がいいとか良くいうけども、そんな次元を超えてしまうんだよ。結婚したりしてしまうと。

素のままでいる自分と、結婚してくれる人がいたら。時として結婚した相手が、自分のやりたいことのネックになるわけじゃない。でも、それは全然違うわ。ネックになるってことは、その逆もあるわけよ。絶対に表の顔と裏の顔があるんだよ。どっちを見るかだよね。

その後、即興演奏っていうものに触れてね、まあフリージャズとかいわれてるみたいだけど。あ、これなら俺にも出来るんじゃないかと思ったの。弾けなくても、なんかパッションがあれば、できるんじゃないかって思って、やり始めたの。

これで海外のジャズフェスティバルとかにも行ってきたわけ。だから、音楽的なものはだんだん生まれてきたんだよね。最初はどうやってギター弾いたらいいか分からなかったけれど。ロックとかやっていた時よりも、自分を出せは、手が動かなくても何とかなるって、音楽が出てくるようになった。それで復活してきたんだ。


※沖縄戦は昭和20年6月23日で一応終結したことになっている。しかし、久米島や宮古、八重山では6月23日以降も戦争状態が続いていた。
6月24日に米軍が久米島に上陸。 6月27日には久米島の海軍守備隊による連続住民虐殺事件が起きた。隊長の鹿山兵曹長らは、6月27日から8月20日までに住民20人をスパイ嫌疑で殺害した。天皇陛下が終戦詔書の放送を行った8月15日以後の18日に親子3人、20日には親子7人が犠牲になった。

もったいない

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朝の鎌倉はよく晴れている。
まだ冬の名残が消えきれない風に吹かれていたら、子供の頃のことを思い出した。
僕の父は送電線工事の会社を経営していた。僕の子供の頃は会社の創業期で、父も母も必死に働いていた。地方の山の中での工事が多かったので、母は水道のないところで50人くらいの人たちの炊事洗濯を全部ひとりでやっていたそうだ。当然寝る間もないほど働いているので、ついつい僕から目を離しがちになる。僕はその頃(今もそうだが)一所にじっとしていられないたちで油断すると丸太の橋をはいはいしたり、池に浮かんでいたり(!)したそうだ。これではたまらんということになって鹿児島の祖母のところにあずけられることになった。
その当時の鹿児島は本当に美しかった。植物も虫も何でも大きくて、水はそこかしこから湧いていてしかも美味い。川に泳ぎにいって最初に出会うのが大きな亀だったりする。テレビゲームも何もなかったけど楽しかった。心の底から愉快だった。お日様も風も風景も木も森もすべてが美しかった。
人生にぴったり寄添っていたという感じかな。。
本当に必要なものは自然が全て用意してくれている。
いらないものも欲しがらされて、欲しい欲しいと言っている。
変な世界になったもんだ。
今日の風に吹かれていると「もったいない」という言葉が聴こえてきた。
祖母の口癖だ。ものを粗末にするとひどく叱られた。
でも今日の風の中の声はこういっていたようだ。「人生を無駄遣いするなんてもったいない」と。

真荷舟という舟

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偶然と必然の境が揺らぐ時、世界はその真の姿を現わす。
「真荷舟 まにふね」というコトバは連日の作曲で極度の疲労に落ちいったある夜、もうろうとした意識で無意識に打ったキーボードのタッチから生まれた。モニター上に浮かび上がったそのコトバは不思議な存在感を持って僕の記憶に刻まれた。そしてそのコトバは今、確かな鼓動を打ちはじめている。

胡蝶の夢
子供のころ、時間はいつ始まったのか?宇宙はどこにあるのか?という根源的な疑問に悩まされた。三次元に生きる身のはかなさで、すぐに思考限界に陥り、その答えは得られなかった。そして答えの代わりにいつも必ず激しい恐怖に襲われた。その恐怖は死であり闇であり無であった。

水のめぐりに
同じく子供のころ、小さい小川を見つけると必ずその源まで辿らずにはいられなかった。突然地面から姿を現わす水。あるものは砂を舞い上げながら、あるものはポコポコと音を立てながら慎ましやかに世界に加わっていく。それを眺める度、私は激しい喜びに打ち震えた。その喜びは生であり光であり愛だった。

メッセージ
ある朝、不思議な夢を見た。そこでは世界の全てが音だった。無数の鈴が響きあってなっているようなその音は僕にこう呼び掛けていた。
「アナタガ ソンザイシテイルトイウ ソノ ハカリシレナイ ヨロコビヲ シリナサイ」

生と死を分かつもの
私は高校生の時、バイクの事故で死にかけた。その後遺症を克服するのに20代のほとんどを費やしたといってもいい。
その時私はバイクの後ろに乗っていて突然道を塞いだ車に衝突した際、その車を飛び越えてアスファルトにたたきつけられた。しばらく何か狭いところに閉じ込められたような感じで音がぐるぐる周りを巡っている。
すると突然、潮の香がした。

「あ、そうか海のそばを走っていたんだな、いい香だなぁ」

そう思った瞬間、ぐるぐる巡っていた音が「大丈夫ですか?」というコトバに変わった。男の人が懸命に呼び掛けていてくれたことにその時気付いた。
後で知ったことだが、人が生きるか死ぬかの瀬戸際にある時、いい香りを感じられるかどうかということがその行方を知る手がかりになるらしい。

20歳になってこの交通事故の後遺症が様々な形で現われた。病院をたらい回しにされ、ヨガや呼吸法、気巧等の道場にかよったが自分にあわなかったのか、ダメだった。ほとんど寝たきりの状態になった時、友人がある身体技法の稽古場に連れていってくれた。そこで様々なこと学び、また音楽を始めることができるようになった。

チャンネルを変える
そこで学んだことの大きなもののひとつに「チャンネルを変える」ということがある。どんなに不調でも自分の中に「元気」なものを見つけだすことができれば身体は変わる。身体が変われば自ずから人生も変わる。
西洋医学の提示するものとは根本的に異なる生命観、身体観に最初は戸惑いながら稽古を実践していく過程でそのことの正しさに気付いた。もちろんそれは簡単なことではないが、いわゆる「良い状態をイメージする」とか「前向きに考える」とかいうのとは根本的に違う状態を生み出す。

自分の中に全てが反映されている。自分の中に「それ」を見出した瞬間に世界は変わりはじめる。

何があるのか?
2001年の10月、家が火事になった。原因不明。昼間の外出中に火が出て、偶然早く帰宅した近所の人が発見してくれたおかげで周りの家は燃えなかった。
生命(家族、たまたま連れて出た犬、ネコ達)は助かったけど、乗って出かけた車と着ている服、そして本当に偶然持って出たギター1本以外ほとんど燃えてしまった。その日寝るところもなくなってしまった。
しかし不思議なことに身体の奥底からものすごい元気が沸き上がって来た。
そして実感した。

「一体何があるのか?」

そして大きな潮流に自分達が乗っていることに気付いた。始めから乗っていたことに気付いた。

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榎田竜路

Author:榎田竜路
気がついたらこの星の上にいました。
音楽作ったり演奏したり、映画を作ったり、森をつくったりといろいろやっております。

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