
「光が強くなればなる程、それによってできる影も黒く濃くなっていく」ある高名な物理学者が、物理学で分かったことは何かと尋ねられた時の答えだ。
光と闇はそれぞれ独立して存在しているのではない。
話は全然違うんだけど、子供の頃、よく「長所をのばし、短所をなくしましょう」と学校で言われなかったですか?僕は素直な良い子だったので、そうすべきものだとずいぶん長いこと思いつづけてきた。そしてできないまま今にいたってしまった。でも、長所だけで短所のない人間というのが果たして存在するのだろうか?それに大体その長所や短所だって相手の都合やその時のシチュエーションによって随分変わる。同じことやってもある人には喜ばれ、ある人には一生恨まれるなんてことだって起きてくる。
まぁ、自分として改善したいところというのは、もちろんいっぱいあるんだけど。。
それに単に「長所」といってもその時と場合で「短所」にもなるでしょう?例えば「几帳面な性格」というのは銀行の窓口では力を発揮するけれど、デートで星空を眺めてる時に星の数を数えないと気がすまなくなったりしたら最悪でしょう?
妻がよく僕のことを「せっかち」といって怒るのだけれど、それを「行動力がある」「決断が速い」といってウットリしてくれる人がいるかも知れないじゃないですか!!
まあ、とにかく僕は僕のままで行こうと思います。
いろんな人がいて、好きだの嫌いだのと勝手な事を言いながらやっているわけで、ある人には「光」に見えるものが、別の人には「闇」に見える。それが正しいだの正しくないだのって言ってても始まらない。
生まれてから死ぬまで我々は決して同じシチュエーションに身を置くことはない。
一瞬たりとも。
心臓も決して同じ打ち方はしない。
同じ光りに照らされることも、同じ風に吹かれることも二度とない。
似たようなシチュエーションはあってもそれは決して同じものではない、
そしてその差は永遠なのだ。
よく「人生には無限の可能性がある」とかいうけど、僕にとって「可能性」なんて何の意味も持たない。たった一つの人生しか僕にはない。
ただそれが「光」と「闇」の関係のように、いろんな姿をとって現れてくる。
子供も一人一人が全然違う時間で生きている。
それを同じ時間に同じ場所で同じことを押し付けるから無理がくる。
中学生の時にどうしても理解出来なかった数学の概念が大人になってから簡単に理解出来たというようなことは誰にでもあるはず。
人は丸ごと全体で成長し変化していくのだから、何歳までにこれが出来なければ平均的でないという発想は子供にとって迷惑な話だと思う。だいたい「平均」という抽象的概念で子供を縛ることに何の意味があるのか,僕の脳では理解が出来ない。
子供は必然性のないことは決して受け入れない。子供だけでなく人とはそういうものだと思う。タイミングさえ合えば驚くほど吸収する。
教師は観察眼と感性を兼ね備えていなければならない。
そしてそれに基づいて子供たち一人一人のタイミングを見計らい、教えなければならない。
いい教師は沢山いる。しかし学校のシステムやそれを取り巻く環境はそれを応援する形になっているだろうか?
僕は三人子供がいるけど一人一人の成長過程は全然違う。
僕は出来れば昔の寺子屋のようなものを作りたいと思っている。
年齢で「横割り社会」をつくるのではなく、大きな子が小さな子を教えるというような、大人だけが子供にものを教えるのではないスタイルを復活させたい。
これだけで社会は風通しが良くなると思う。
海外の若者と付き合えばよくわかるけど、日本の教育は「大人」を作らない教育なのだと思う。
大人とは自分をレスペクト出来る人のことをいう。
自分をレスペクト出来る人は、自分以外の「もの」を使って自分の価値を高めようとしない。
バブルの頃、温泉に入っていたら、宝石だらけの時計とごっつい金のネックレスをはめたおじさんが入ってきた。「あの時計、傷まないのかな?」と思いながら見ていたら、突然、なぜ彼がそうしているのかが理解できた。
「そうか、風呂の中に高級車乗ってこれないものなぁ」
自分は金持ちだと風呂の中でも示威出来なければ落ち着かないのだ。
「あんな大人には絶対にならない」とその時強く誓ったのを思い出す。
案外教育なんて、裸で風呂に入れる大人を育てることだったりするのかも知れない。