人間はいつか死ぬ。
受けたバトンを渡すのが人間のレーゾンデートルだ。
僕が死んでからも続いていくもの、
僕の子供達が死んでからも続いていくもの、
僕が生まれる前に生きていたもの達から受けついだもの。
生命は個体では存在し得ない。
この地球も、宇宙もひとつの生命体と見ることが出来るだろう。
そう考えると僕たちは無限で永遠の存在なのだと感じることが出来る。
それが愛の本質なのかもしれないと気づいた時があった。
時間が過去から未来へと流れているように観えるのは人間の性能がそうさせているのであって、本当は時間はただ偏在しているものなのかもしれない。
そんなことを考えるとバトンタッチされてから、バトンタッチするまでを全力で駆け抜けようという気になってくる。
そういう気になるように丈夫に産んで育ててくれた両親に感謝でいっぱいになるし、「幸せ」とは状態ではなく能力だと悟らせてくれた先達達に深い畏敬の念を禁じ得ない。
自分に力さえあれば、人生に限りない面白みを見いだすことが出来る。
これが嬉しい。
育ちゆくものを見出し慈しむ眼差しを真摯に磨き続けたい。
それが愛という行為なのだと子供達の寝顔が教えてくれている。
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「白熊って冬眠するのかな?」
と、唐突に疑問がわいてきたら、
「人間も昔は冬眠してたのかな??」
という風に連想が飛んだ。
すると「冬眠ってかなり省エネになるよな」とか、
「食糧不足にも貢献するよな」とか、
とりとめも無く考えが進んでいく。
「人間も冬眠出来たらいいのにな」
家族みんなで穴蔵にこもってしばしの眠りにつく。。
雨の鎌倉の森を眺めながめてると、
いろんなことが頭に浮かぶ。
肺炎は昨日のライヴの後、うまく経過してくれている。
咳が出る場所がだいぶ上に上がってきた。
それに連れて咳を出す時の痛みもほとんど無くなってきた。
今回はうまく経過出来そうだ。
また身体が丈夫になって、困難に対する力がついてくるだろう。
自然の働きというのは本当に興味深い。
一番身近な自然はもちろんこの身体だ。
冬眠していたかもしれない先祖達の記憶が僕の身体にプログラムされているのか、雨の森も眺めているとねむねむになってくる。
冬眠ってできないものかしら。。
自己嫌悪といのは面白い現象ですね。
僕も以前は激しい自己嫌悪派でした。
自分に対する要求が時期早々もしくは身分不相応に高かったため、いらん苦労を死ぬ程しました。
いつも昔犯した過ちをいろいろ思い返しては、
「ああ、俺はなんてだめなんだ」「ああ、死にたい」などと身悶えていたこと思い出します。
今でも自己嫌悪に陥ることが時々ありますが、以前と違ってずるずるねちねちそいつに関わっている時間がありません。
まぁ年とともに図々しくなったということでしょう。
自己嫌悪は自己顕示と深い関係があるようで、
自己嫌悪は「クヨクヨウジウジ」
自己顕示は「ミテミテホメテ」
とどちらも生きていく上で必要な本能的感覚だと僕は思っています。
自分に対する期待が過剰に高い時期というのは誰にもあるもので、しかもこの時期が幼少期から青年期ぐらいまであるので場合によっては神経がまいっちゃうこともあります。
若い頃は自分に無限の可能性が開かれている(もしくは何の可能性も開かれていない)という強い思いに押しつぶされ気味になります。
何故か?
可能性はなにかしらに「限定」されなければ現実化しないからです。逆に、なにかしら自分を「限定」することが出来れば、何の期待も希望もない人生にも可能性が生まれてきます。ただ無限の可能性をぼんやり見てるだけでは何にも始まりません。
実に不可思議な「限定」の力よ
昔、僕の先生が、「大人になるということは分別がつくということです。分別がつくということは自分の出来ることと出来ないことがはっきりするということです」と言っていた。
「何でも出来そうだからなにも出来ない」と、「何にも出来そうにないから動けない」ということは実は同じことなんだけど、ここに中々気づかない。
「一体何をしたらいいのか分からないんです」
とよく相談されるけど、僕から言わせたら答えは簡単です。
今目の前にあることに集注してください。
「可能性」という言葉に引っかからないで下さい。
それが「限定」することの威力に触れる鍵です。
と一応分別盛りの年齢にさしかかったはず(?)の僕は、今も自分に言い聞かせているのです。
ちなみ僕は「限定」を用いることを始めてから自分の可能性が広がってきました。
若いうちは自分に無限の可能性があるように感じる。
でもその「無限性」ゆえに何もできないことが多い。
そしてそのことに悩む。
「自分が一体何をやりたいのか分からない」
大まかな方向は出るんだけど、
とくにそれを職業にするということを考えた時に絞りきることが出来ない。
それは何故かというと「能力」がないからだ。
その「能力」を磨くことをせずに「夢」ばかりみている人は結構多い。
僕にもそういう時期があった。
僕のところにも、「何かやらせて下さい」といってきてくれる人が多い。
でも僕たちが求めている人材は「こういうことが出来るのだけど」とハッキリと自分の能力を示すことができる人なのだ。
もっと言うとプロデューサー的な能力に長け、かつ応用力の高い人が必要なのだ。
僕たちに関わる若い世代の何人かは育ちつつある。
彼らの特徴は自分達の能力をはっきりと自覚しているということだ。
出来ることと出来ないことが明確なので、人と協力して物事を創り出すことが出来る。
今も、メディアアートで環境に対する感覚を世界規模で共有することを目指した新しいジャンルの映像を製作しているチームがいる。
彼らは限られた資金、時間、機材で最高のものを作ることを課せられた。
しかしこれは彼らの能力を最大限に伸ばす最高の試練なのだ。
人はこうやってしかその能力を伸ばせない生き物なのだ。
能力の無い人は迷うし悩む。
結局、「夢の職業」は自分で創り出すしかない。
古来、日本の掃除の眼目は如何に清浄感を出すかということにあったらしい。
はたきがけは見ようによっては、ただほこりをまき散らすだけの行為と言えなくもないし、箒がけも同様だ。
しかしでは掃除機をかけた後に「清浄感」が生まれるかと言えば、そうとも言えないということ経験している人は多いと思う。
僕の経験上、「清浄感」という事に関して言えば「はたきがけ」「箒ばき」「ぞうきんがけ」に勝るものはない。
身体教育研究所の稽古会に参加しはじめた頃、掃除の仕方をの習った。掃除の仕方というより掃除を通じて「身体の使い方」を習ったと言った方がいいのかもしれない。
ちゃんと身体を使って「はたきがけ」「箒ばき」「ぞうきんがけ」をすると、不思議と自分が澄んでくる感じが起こる。
自分が澄んでくるとさらに不思議な事に掃除した部屋に清浄感が漂ってくる。
この経験は僕に大きな影響を与えている。
よく「和室は畳があるからダニやカビが発生しやすいので健康に悪い、家は全部フローリングにすべき」だなどという事を真顔で言う人がいるが僕は決してそう思わない。
そういったものを排除するのではなく共存することで我々の身体は形成されてきた。免疫も然りだと思う。
清潔を病的に求めるとそれこそ病気になっていく。
身体は強くなるように出来ている。
そのチャンスを無闇に奪うのはどうかと思う。
単に「清潔」求めるなら無菌室の中で一生を送ればいい。
試しに「箒ばき」について説明すると
出がらしのお茶っ葉をしぼり、床に播いてそれを転がすように箒を使う。床全体まんべんなく「転がした」ら最後にお茶っ葉をちりとりに掃き入れる。
箒を乱暴に扱わず、出来るだけ小さい動きで丁寧に、「シャッ、シャッ」という感じでやると、身体の中も静まってくる。
やってみると面白い!
やった事のない人は是非お試しを!!
僕の発見した経済法則。
「人は人の欲しがるものを欲しがる」
如何に「人に欲しがらせる」かという事が高度資本主義経済の本質。(ちょっと大げさだけど)
僕は火事になった時、自分が本当に欲しいものと「欲しがらされていた」ものの違いが分かりました。
情報が「欲しがらさせる」トリガーになります。
自分から「中心」が奪われ、自分以外のものに自分の価値形成を委ねる事態はここから起こります。
だからメディア教育を学校教育に導入すべきだというのが僕の持論になるのです。
子供たちに「幸福とは何か?」と訊かれて、
答えに窮する大人は少なくないと思う。
人によって「幸福とは何か?」ということについてはいろいろな意見があるだろう。
でもあえて僕はこう思う。
幸福とは「状態」を表す言葉ではなくて「能力」を表す言葉なのではないかと。
今日、Rainmakerの一人であるマークがうちにやって来た。
フニュラで蒔いた粘土団子からたくさんの木が生えて来て、現地の人を沸かしているということ、我々のプロジェクトの協力者が爆発的に増えつつあること等の嬉しいニュースを持って来てくれた。
次に打つべき手のことを話し合っている時に突然僕は幸福なのだということに気づいた。
何故、僕は幸福なのか?
それは僕たち自身が希望を生み出し、それに向かって近づいているからだ。
「希望を生み出す能力を身につける」
これが幸福へのファーストステップだ。
バブルの頃、箱根の温泉に行った時に面白いことがあった。
僕が湯船に浸かっていると、変なおじさんが風呂場に入ってきた。そのおじさんは首にぶっとい金色のネックレスと腕に宝石をたっぷりとちりばめた時計をはめたまま入ってきた。
「痛まないのかな?」と僕は他人事ながら心配になった。
しかし彼の挙動から何故、彼がそんな恰好で風呂に入ってきたのか気づいた。
「そうか、風呂の中には高級車乗って来れないものな。。」
俺は金持ちだという事を裸で誇示する事は出来ない。
気の毒としか言いようがない人だった。
風呂ぐらい裸で堂々と入りたいものだ。
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