「希望」と「気休め」の違いが分からない人がいる。
歴史を観ると自分の信念を貫き生命を燃やし尽くした人たちがいくらもいる。人はいつか死ぬ、ほとんどの人は100年と生きれない。
「この星に今まで何人の人が生まれては死んでいったのだろう。。
何組の親子や恋人達が死によって分たれたのだろう。。」
というようなことを富士山嶺を歩きながらながら思った。
この世に生まれて来た意味は自ら生み出すもの。
それが「希望を持つ」ということだと僕は考える。
僕が身体の不調に悩んでいた時、
僕の先生が「自分の身体の中に元気なところを見つけ出すことが出来れば良くなる」と言った。最初はそれこそ「気休め」にすぎないと思ったが、僕の先生は即座にその方法を僕に示し、僕は自分の中の元気を発見し、それからみるみる状況が変わって来た。
「希望」は感覚に根ざし、「気休め」は論理に根ざす。
感覚には根拠がない。
根拠がないから力となる。
恋愛を見ればすぐ分かる。
論理で恋に落ちる人を僕は知らない。
今、世界には悪いニュースばかりが蔓延っているように見える。
しかしそんな世界の中にも「元気」を見いだすことは出来るはず。
僕は僕なりに見いだしたその「元気」を頼りに生きている。
そうすると不思議なことが起きる。
「希望」を見いだし、それを目指すことが生きるということだと僕は自分の子供達に臆せず言うことが出来る。
ありがたい。
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「身体が変われば、意識が変わる」というのが僕の経験上の実感です。
「身体が変わる」ということは言い換えれば「身体の使い方が変わる」ということになります。
人の判断の規範というのは実は身体感覚にあるということは意外に知られていません。ちょっと考えれば気がつくことですが、例えば仕事で初めて会った人と挨拶をかわす時、丁寧な挨拶には好感を持ちます。この「丁寧」という感覚はどういう感覚かというと、挨拶を「チャン」とされたという感覚です。
では「チャン」とするとはどういうことかというと身体を「全体運用」するということです。
身体を全体運用することにより、その人の能力が発揮されるのです。
だから子供に「チャンとするってどういうこと?」と訊かれたら、「身体をひとつにまとめて物事を行うということだよ」と教えてあげましょう。
出来れば、親が生活の中で「身体をひとつにまとめて物事を行う」ことを見せてあげると子供の共感と理解が得やすくなります。
そうすることで人は自分の能力を育て、発揮していくことが出来るのだということが分かれば、人生に於けるいろいろな問題を解決するよすがになるでしょう。
「なんだか最近うまくいかない」と思ったら、身体の使い方を丁寧にするようにしてみることを御勧めします。理屈では解決しなかったことが、変化していくかもしれません。
情報を発信したり受信したりする時に注意すべきことは、
「事実のみを捉える」ということに尽きる。
その「事実」から自分の都合と感情を交えて抽出されたものが「真実」で、
これは人によって異なった情報として創られる。
「真実」はエッセイとか映画とかに描くべきことで、
報道として発信すべきことではない。
というのが僕の立場だ。
僕はアジアの映像教育機関の連携を進めている中でこのことを学んだ。
学生たちは徹底的にこの「事実と真実」の違いとその伝え方を学ぶ。
どこで?
いつ?
何が起こったのか、起こっているのか?
それは僕にとってある種の衝撃だった。
「お前がどう感じるかより事実をそのまま伝えること」がいかに重要で、それを誤ったばかりにどれだけ悲惨な事態を招く可能性があるのかということを歴史から徹底的に学ぶ。映像技術というものは世界に対し大きな影響を与えるものなのだから当然だ。
「事実」を共有した上で「私はこう考える」「私はこう思う」ということを明らかにしていかなければ結局力を結集しきれない。
事実は真実よりもはるかに共有しやすいものなのだ。
だから事実を共有出来ればそれだけで力となるのだ。
今のようにネットが発達した環境では、特に映像情報の扱い方は慎重にすべきである。
立場や環境によって「真実」は異なる。
この原理をうまく利用してコントロールしようとする人たちがいることを忘れてはならない。彼らは私たちの「心」の性質を利用して力を分散させることに巧みだ。
その映像に映っているものが何も事情を知らない人たちにどういう影響を与えるかということにまで思いを馳せる必要がある。
興味がある人は「真実」に集うことができる。
だけど本当に力を結集したければ興味のない人たちと「事実」を共有することから始めるしかない。
何かをなそうとする人は、自ら事実と真実を混乱させることを徹底的に排除しなければならない。
昔よく祖母や母から「行儀が悪い!」と叱られた。
「行儀って何だろう?」といぶかしむ暇も無く、
それは僕の身体に叩き込まれた。
大人になり、身体教育研究所の稽古会に参加するようになって、
はじめて「行儀」の成り立ちを知ることとなった。
足を組んだり、肘をテーブルに付けたままご飯を食べたら行儀が悪いと言われて来たが、それは何故か?
やって見れば分かるが足を組んだり肘を組んだりしたままものを食べたり飲んだりしたら、感覚が遮断されることに気付く。
行儀が悪いと身体全体で「いただく」という感覚が起きないという事実に稽古中に気付いて愕然としたことがある。
我々の食べ物はすべて植物や動物の生命から成っている。
だから食事は「いただきます」から始まるのだ。
食べ物に感謝し、ありがたくいただくことは、
生命の尊さを実感させるこの上ない習慣となる。
これは究極の安全保障につながっていたはずだ。
行儀が悪いということは生命を軽視しているということと同義だったのではないか。だから祖母や母は僕に「ちゃんとしなさい」とか「行儀が悪い!」とか言い続けてきたのだと思う。
日本人はこの感覚の全体運用というべきものをその身の処し方や生活全般に広げてきた。これは世界に誇るべき伝統だ。
行儀よく食べると食べ過ぎることが少なくなる。
調理にも無駄がなくなる。
これはものを大事にする究極の態度だろう。
「もったいない」という言葉にも実感が伴ってくる。
行儀よくすることは最初のうちは窮屈に感じるが一度その型に入ると、ある種の快感を伴った力が全身に漲ることに気付くだろう。
行儀は衣食住すべての行為、それこそ立ち方、座り方、寝方、歩き方といった人間活動のすべてにわたって威力を発揮するし、その人の存在の有り様を規定してしまう程の力を持つ。
昨今、映画関係者の間で囁かれていることだが、最近の俳優(女優も含めて)達は「立っている」という感じが希薄になってきているらしい。
「キャラが立たない」という言葉があるがこの場合は「存在が立たない」とでも言うのだろうか。。
昔の俳優たちは望遠で撮ってもはっきり主役というのが分かったそうだ。
今はそういった若い俳優がいないのでバストアップ主体になってしまうと、ある映画人が嘆いていた。
存在が立たないということは彼らの「立つ」という行為に感覚の全体運用感が乏しくなっているということなのだろう。
身体感覚を全体運用することが出来なくなってきている人が増えているのは確かなようだ。先日ある女性と話していたら、「最近の男の子は重いものが持てない」と言っていた。僕は重いものが持てないと言うより、重いものを持つための身体運用法を知らないと言った方がいいのではないかと思う。
行儀=身体感覚の全体運用を子供の頃から身につけることは、人生に起こる様々な難関を乗り越える基礎体力を養うことにつながる。それは判断の基準を自らの感覚に求め得る身体を育てることに他ならない。
「お行儀」というようなソフィティケートされた感じではなく、圧倒的な存在感を放つ身体運用を成り立たせる「型」としての行儀。それはその人のバイタリティーを育み、人生を豊かにするだろう。
行儀を身につけることは行儀を崩すことで得られる力をも身につける事になる。これは実はなかなかあなどれない力なのだが、この話をすると長くなるのでまたの機会に譲ります。
人工も自然のうち
夜中に心臓の具合がおかしくなり、少しの間だけど心臓が動かなくなったことがある。
時間にしたらほんの数秒だったと思うのだが本当に怖かった。
手足の先が冷たくなっていくのがわかる。
背中にぽっかりと真っ暗な穴が出来たような気がして、
それを見るまい見るまいと努力したのを覚えている。
その時、僕は自分の意識が地球をゆっくり離れていくヴィジョン中にいた。
離れた場所から地球を見ると、街の明かりや車の動き、工場の煙といったものまで地球という生き物の営みとして感じられた。
すると遠くの方からヒューンという音がして来て、何かが僕の身体を貫いた。
その瞬間僕の心臓はまた動き出した。
と同時に身体中から汗が噴き出した。
時間にしたらほんの数秒だったのだろうと思う。
でもそれは普段のそれとはかなり異質なものだった。
あれは何だったんだろう?
人が地球という自然の働きが生み出したものなのだとしたら、「人工」といわれるものも自然の働きが生み出したものといえるのではないか。
自然には「意思」と言えるようなものが確かにあるような気がする。
あの時感じたものは今でも僕の中に響いている。
グレーゾーンを持つと楽になる。
二律背反、矛盾を平気で抱え込める人は頼りになる。
昔で言えば「腹の太い人」ということになるだろか。。
これは言うまでもなく冷酷や鈍さとは最も距離のある態度だ。
豊かな感受性に抱かれてこそグレーゾーンは力を発揮する。
「腹の無い人」は他者を迎え入れることが出来にくい。
「腹の無い人」は感受性は鋭くても、その多様性や懐の深さに欠ける傾向にある。だから、違った意見も自分の中に抱え込んで、時にはそちらのベクトルも利用するぐいの人でないと僕は信用出来ない。
言っていることや、やっていることが変化したとしても、その必然性がこちらに伝わればむしろそれは臨機応変な行動に僕は思える。
結局、何がやりたいのかということをパーツでなく潮流として見せてもらえたら話が早いのだが、腹の無い人はパーツばかりをちらつかせてくる。
それでも無下には扱えないので、非常に迷惑することが多い。
腹の無い人の特徴は一見「はっきりしている」ように見えるということだろう。だから物事の動きも見えているように「見える」のだが、しばらく付き合うと「はっきりしている」ように見えるのは、本人の引き出しの過激なまでの貧弱さやその分類法の稚拙さに由来するということに気付いたりする。
坂本龍馬と言えば、明治維新の立役者だ。民の苦境を救うために薩長同盟の実現や大政奉還といった大仕事を進める傍ら、彼は日記や手紙に驚くべきことを書いていた。
詳しいことは龍馬関係の文献にゆずるが、要するに清濁併せ持った傑人で、決してきれいごとだけをまくしたてていた人間ではなかったということだ。
僕の言う「グレーな人」の代表的な例だろう。
時代が変われば過去の価値も変わる。
それは「価値」というものは常に現代を生きる人達によって規定されるからだ。
龍馬の夢が今、世界に貢献しているかどうかといえば、様々な意見に別れると思う。
でも僕はグレーを自分の内側に取り込んでいきたい。
そうして多様な眼差しを身のうちに備えたい。
生命潮流の放浪者の眼差しは多様ではあっても常に真っすぐ向けられている。
僕はそういう人間になりたいと思う。
僕の先生のお父様は野口整体の創始者の野口晴哉氏です。
僕の先生の長男が小さ頃が中々寝なくて先生も奥さんも半分ノイローゼになりかけた時、お父様である晴哉先生に泣きついたそうです。
晴哉先生はその子を抱くと即興の子守唄を歌ったそうです。
「眠っても好いんだよ、眠らなくっても好いんだよ、どっちでも好いんだよ、トロロンロン」
すると信じられないことにあれだけ寝なかった子供がコテンと寝てしまったそうです。
「親の期待が強すぎて子供は眠いのに寝れなくなっている」という晴哉先生の指摘に愕然としたと僕の先生が言っていました。
「親」を「自分」に、そして「子供」を「心」に置き換えたら、僕たちにも当てはまる言葉だと思います。
前向きに生きなきゃとか、頑張らなきゃとか、頑張らないようにしなきゃとか決めないで、「どちらでも好いじゃない」というぐらいのおおらかさを持つ方が、人としてむしろ自然なのではないでしょうか?
以前、僕も自分の心の弱さに悩み続けていたことがあります。あれをしようこれをしようと心に決めてもすぐに気持ちが揺らいでしまうのです。頑張らなきゃと思えば思うほど頑張れなくなってしまう。
でもある時、心は揺らいでこそその働きを全う出来るのだということに気づきました。
揺らがない心は死んでいる心です。
心が揺らぐのは当たり前なのです。
揺らぐものは頼りになりません。
心はほっておけばいいのです。
頼るべきは中心感覚でこれは身体的訓練によって誰にでも獲得出来ます。
だから揺らぐ心には「トロロンロン」とささやきかけてあげるだけでいいのです。
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