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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

Identity


日本文化は身体の全体運用の有り様を多様な形で追求して来た。
それが英語で言うところの「Identity」を規定するものとなっていると私は考える。

それは身体に由来するものであるので、生活の有り様でその規範となるものは当然変化する。

100年前と現在とでは我々の生活は全然違う。
肉体労働の割合が極端に減少している。
当然、きつい労働を楽にするための身体の使い方の工夫といったこともその多様性を失っているような気がする。

身体運用の規範となるものが我々のIdentityとなる。
これは私が身体教育研究所で学んだ気付きのひとつだ。

どんな小さい動きにも集注して身体を全体運用するように工夫していくと、生命としての退化が食い止められる。免疫力も高まる。

これが実はInternationalに通用する唯一無二のものであり、
自分の生き様を方向付けるプログラミングとなる。

自分を捜しに自分をどこかに運ぶ必要はない。自分は常にここにある。
Identityは身体の全体運用を心がけ、目の前にあることに対処していくことでしか身に付かない。

言い換えれば、それさえやれば必ず身に付くということだ
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身も心も

たったひとり、わけのわからにところに産み落とされて、
たったひとり、わけのわからないままやがて逝かねばならない。
これは「宇宙の孤独」

愛しいものに囲まれれば囲まれる程、
家族や友人や恋人達に愛されれば愛される程、
それは激しさを増してくる。

でもこの孤独は悪くない。
この「宇宙の孤独」が愛になるのだから。

自分の中から愛が溢れ出していく感じは悪くない。
それと入れ替わりにまた「宇宙の孤独」が流れ込んでくる。
そしてそれがまた愛になって溢れ出してく。

これが生きるということ。
悪くない。


食うためのSATOYAMA

ケニアで食うためのSATOYAMA作り、始めます。

里山とは本来、生活の基盤となるものなので、
そういった意味では「食うための」という前書きはいらないはずだが、
最近は遊びや自然保護や情操教育等で使う森のことも「里山」と呼ばれているようなのでわざわざ「食うため」という表現を入れている。

生態系と共生することで人の全生活が完結するシステム。
これを今の世に再現するのは大変だ。

国内でも最近はいろいろなところに呼ばれて、その現状を学ぶ機会が急速に増えて来た。現実の日本では第一産業だけで「里山」を実現出来るところは限られてくる。そう言った意味で直接、「食う」=「第一次産業」だけでの「里山」ではなく情報や金融まで含めた新しい多次元産業の融合による「SATOYAMA」を構想し、実現していくことが重要になってくると僕は考えている。

普段、情緒的なところで語られることの多い「里山」について、「食う」という観点に集約して考え始めたのはやはりケニアでの緑化事業をはじめてからだ。

あそこには仕事がない。
しかし国際的な貨幣経済の中に組み込まれているので現金がなければ生活出来ない。

森林減少も人の営みと密接につながっている。
ガスや電気のインフラがないので薪が唯一の燃料となる。

「昔に戻せばいいのよ」と簡単にいう人達が今も回りにいたりするが、
「どうやって?」といつも僕は聞き返さざるおえない。

そう、確かに昔はみんな自然の中で生態系と共生して暮らしていた。
僕の子供の時でさえ、鹿児島の祖母の家での生活は豊な生命の大合唱の中で暮らしているようなものだった。それが田んぼの水路がコンクリートになってからその地域の気配が一変した。何かが大きく不自然なのだ。

しかしだからといってそれだけの理由で行政にコンクリートを引っぱがさせることは出来ない。テムズ川の上流のようなナチュラルな護岸工法を導入させるだけでもそのプロセスは膨大だ。

生態学、教育、心理、農業経済、生物多様性、有機的分野に関するファンドの創出、地域おこし、安全保障、観光等々の様々な分野からの説得力あるデータを構築し、それを指数化し、さらに世論を醸成するためのメディア戦略を推し進めながら、地元の政治家や抵抗勢力等も上手に巻き込みながら進めていかなければならない。

金も手間も時間もかかる。
ただ情緒的な理由からだけは誰も動いてはくれない。

話がそれた。


現在、ケニアで現地住民が「食い」ながら森林育成にもつながるビジネスモデルの調査を進めている。現地での信頼出来る人材探しからのスタートだったのだが、やっと現地の森林の専門家と組むことが出来そうになった。
これを軸に現地の体制をリニューアルしていく。

ここまででも大変なんです。


今、第一次産業を中心に、流通までが分かるビジネスの専門家が必要です。
「是非、協力したい!!!」という専門家の方がいらしたらご一報ください。

まず勉強会から始めたいと思います。

アルタードステーツ

変性意識状態という言葉がある。

普段と違う意識状態のことを指すのだが、
それはお酒や薬物の摂取、もしくは身体操作等で訪れる。
酔っぱらった状態もそうだし、ランニングハイや瞑想の時になる精神状態もこれに含まれるだろう。

今日、久しぶりにそれになった。

お酒も薬も飲んでいないし、瞑想やヨガもやっていたわけでもない。
風邪を子供からもらったらしく、夕方から喉が痛みだした。
横になっていたらいつのまにか眠ってしまったらしい。

子供の頃、学校から帰ったあと昼寝をすると時々不思議な状態になった。
1時間か2時間眠ったあと目覚めると時間の感覚が飛んでしまい。
自分が違う宇宙に来てしまったような感覚に襲われる。

寝ぼけているというよりは覚醒していると言った方が正しいのだろう。
ぼーっとしているわけではない。普段は安全弁として意識の周りに張り巡らされている透明な膜がはぎ取られて、感覚が生々しくさらけだされているとでもいうのだろうか。。

その覚醒状態は、まるで虚空に独り浮いているような強力な孤独感を子供の頃の僕にもたらした。泣いてしまいたいのだが、泣いてもどうしょうもないことなのだといいうことが深く分かっているという感じ。これはせつない。

たまらず、食堂の方に行ってみると、母が夕飯の支度をしていたりする。その母の姿も妙によそよそしく感じられ、これは偽物なのではないといぶかしんだりしてしまう。

しかしそんな状態も僕に気づいた母の「もうすぐご飯だよ」という言葉で「元」の状態に引き戻されるのだから家族の力は大きいのだと改めて思う。

今日も半分眠っているような状態の時に隣の部屋にいる子供の声が聞こえて来た。身体は完全に眠っている。でも意識だけは深い井戸から空を見上げると空の部分だけがくっきりと観えるように子供の声だけがはっきりと聞こえる。

そしてその声を聞きながら僕は自分の両親のことを思っていた。
それはとりとめのない断片的なイメージとして僕の心を通りぬけていく。
あんなに強く丈夫だった父も年老いていった。母も髪こそ真っ黒だがやはり老人と言っていい領域で生きている。それもそうだ二人とも昭和一桁生まれなのだ。

僕はどうだろう?父の年まであと30年。
子供達とあとどれくらい一緒にいられるのだろうか?
魂が永遠不滅だとしてもこの世から去らねばならない時がくる。
それはこの宇宙に生まれ落ちた時に定められた運命なのだ。

悲しいのは忘れてしまうことなのだ。忘れられることではない。
 
僕にとって死の恐怖とはこれだ。
これは宇宙の孤独だ。
何ものも癒すことは出来ない。

しかし孤独というのは「力」なのだ。
孤独とは生命力の別名のことなのだ。

ここには無数の生命が溢れ帰っているように観える。
しかしそれは結局、究極たったひとつの生命なのだ。

それは始まりも終わりもないもの。
それを愛と呼ばすに何と呼べばいいのか?

我々は「宇宙の孤独」ゆえにつながっている。
私はあなた、あなたは私。
私は宇宙、宇宙は私。

「天上天下唯我独尊」といいう仏陀のものとされている言葉もキリストの「汝の敵を愛せよ」という言葉も僕にとってリアルな重みを持ってくる。それはとてつもない愛の宣言として僕の前に現前してくる。

そしてそれはあの時の「もうすぐご飯だよ」という母の声に感じたとてつもない安心感と完全に重なるのだ。

あの時の母の声と、今日の子供達の声。
魂の家族達の歌声は僕の中を棒のように貫いている。

森を作る。
愛する人と歌う。
今を全力で駆け抜ける。

いつのまにか変性意識状態で観たものを行動に移すことが出来るようになって来た。だんだんやりたいことが出来るようになって来た。

ありがたい。

お別れ

大事な人が逝ってしまう。

人生が思い出だとしたら、
その思い出の中に大きく関わっている人たちの旅立ちはいかんともし難い慟哭を呼ぶ。

人はいつか死ぬ。

僕が人は必ず死ぬということを知ったのは5歳くらいの時だった。
その時僕は泣いた。
「僕死にたくないよ 僕死にたくないよ」
それは死が怖かったからではない。
怖かったのは「忘れてしまうこと」だったのを今もはっきり覚えている。
死は思い出さえも運び去ってしまうような気がして僕は怯えた。

この星に今までどれくらいの人たちが生まれて死んでいったのか?
僕の長女が生まれた時に僕は生まれて初めて自分がいつか死ぬということを思い知った。
新しい生命の誕生が僕に僕自身の終わりを突きつけたのだ。
このとてつもなく愛しいもの。
明らかに僕の生命より大事なもの。
生まれたての温もりをこの手に抱きながら僕は愛の意味を深く身の内に宿すことが出来た。

今僕は沢山の愛に囲まれている。
そこには美しい女性たちも含まれる。
そこには可愛らしい子供たちも含まれる。
そこにはうるさ型のおじさま達でさえ愛に溢れて共にいる(笑)

声で響き合うものはあらゆるものを越えて、
あらゆるものに優先して、愛を育むのだ。

この智慧の果てるまで。











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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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