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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

告知:第7回横濱学生映画祭開催のお知らせ

今日はちょっと告知をさせて下さい。

アジアの若者達の交流の場として、着々とその役割を広げている横濱学生映画祭が今年も開催されます。

今週末の金土日の三日間にわたり、日中韓を代表する学生作品が集います。
毎年非常にレベルの高い作品が集まり、まさにアジアの時代を象徴するイベントのひとつに成長してきました。

詳細は
http://www.ysff.jp/
をご覧下さい。

思えば、ここからたくさんの新しいプロジェクトが生まれてきました。

日中韓共同製作映画
http://www.movie150.com/

環境メディアアートフェスティバル
http://www.tepia-infocompass.jp/kankyo08/index.html

心連心シネマ
http://www.chinacenter.jp/cinema.php
心連心美術館
http://www.chinacenter.jp/japanese/museum/

を始め
地域情報デザインによる地域活性化プロジェクト「Earth Voice Project」等々
現在進行形で沢山のプロジェクトが「アジアの風」として結実しつつあります。

これからのアジア、そして世界の未来を感じたい人は是非ご来場下さい。
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切り替わる感じ

油も肉も一切摂らない生活になって約10日。
今日は身体に面白いことが起きた。

昨日まで群馬県の上野村に行っていて、
演奏したりメディアアートの展示をしたりして来たので、
帰宅したらくたびれ果ててすぐに眠ってしまった。

すると朝方、強力な寒さを感じて目が覚めた。
湯たんぽを布団に入れていたのだが、身体が凍えるように冷たく感じる。
そうしているうちに体温が急速に下がってしまい、布団の中で身体が動かなくなってしまった。

指さえも動かせない。
これは困った。
死んじゃうのかな?と思った瞬間、意識が飛んだ。

それから僕は不思議な夢の中にいた。
意識だけになった僕はいろいろなものを観ることが出来た。
生命の源と言えるような場所にも行った。
それは宇宙の底を抜けたところにあった。
そこは「無」だ。
すべてを生み出す源なのに何もない。
空間さえもない。
もちろん時間もない。
SFさえにもならない。
あれは何だったんだろうか?
でも「そこ」で自分のやるべきことも確認出来たし、それを成し遂げることが出来ることもわかった。なんか自分の未来を映画で見せられたようだった。
不思議な夢。

しかし意識が戻ってからも、寒さは消えていなかった。
おかげでしばらくは布団から出ることが出来ず震えるはめになった。
体温が下がっているせいなのか、長い「旅」から戻った疲れのせいなのか、僕はなんだか訳のわからない寂しさの中にいた。

ようやくなんとか起きれるようになってメールをチェックしたら、
北京の僕の生徒達からメールが来ていた。
偶然、3件も。
その中にはもう卒業してしまって、2年近く会っていない子もいた。

三人とも「miss you 」と書いてくれていた。
「miss you」という文字を見た瞬間、僕の胸に暖かいものが溢れて来た。
遠く離れた彼女達が偶然、今日という日に僕に会いたいと思ってくれたのだ。

さっきまで凍えていた僕の中に彼女達の笑顔が広がっていく。
すると僕の中で何かが切り替わる感じがした。

温かい気持ちに触れる時ほど幸せなことはない。
さっきまで凍えていた心と身体はもういない。
言葉の力の偉大さに触れた。
言葉が生命の本質なのかもしれない。

酒のせいでもう北京はこりごりだと何度も思ったけど、やっぱりこれからも行くだろうな、こりゃ(笑)

手ごたえ

「中が動く」ことの面白さに気付くと、
自分の感覚で生きることが楽しくなる。

それは「手ごたえ」といってもいいかもしれない。
この「手ごたえ」は誰に評価されるべきものではない。
まさに自分自身の感覚だ。

自信とはこの「手ごたえ」の積み重ねのことだ。
人から与えられた「意味」に生きることをやめて、
自ら生きることに意味を与えていくと、この人生は急に明るく軽やかになる。

先日、行った石川の松任に中川一政美術館のあることを聞いて早速足を運んだ。
真鶴の中川一政美術館には元気が欲しい時によく行った。
私は中川翁の作品が好きである。

松任は非常に文化度の高いところで、
俳句も千代女の関係で盛んなようだ。
広い空の下、松任駅のすぐそばにその美術館はあった。

大きめのギャラリーといった規模のその美術館に真鶴から貸し出された見慣れた作品とともに飾られた初めて見る作品達。

それらの前に立つと私の中がいろいろな動きみせる。
美術館を出る頃にはなんだか山登りをし終わったような壮快な気分になっている。

それはそれは素晴らしい手ごたえだった。

そのあと金沢の21世紀美術館に行った。
そこの作品群はアイディアも面白く充分楽しめたが、
中川作品のように複雑かつ有機的に「中が動く」というのとは違った印象だった。
それはそれで面白いのだがまた見たいと思うようなものは少なかった。

タレルの部屋が一番よかったかな。
天井が真四角に切り取られていて、空の変化を楽しむことができる。
切り取ることで、ただ空を見上げるのとはちがった感覚を味わうことができる。

友人と二人で壁の下部全面にしつらわれたベンチに座り,少し斜めになった壁にもたれて一時間程佇んだ。

時々カラスや小さい鳥が飛んでいく。何故か彼らの一生懸命さが伝わって来たり。次第に夕暮れに近づく空に一瞬たりとも立ち止まることのない宇宙の息吹を感じたり出来て幸せだった。この時の「中の動き」は中川一政の作品に対した時と同質だった。

その「手ごたえ」は私たちを幸せにした。
その「手ごたえ」は私が何者なのかを指し示している。

虚実同舟

「最も強い種が生き残るのではない。最も利口な種でもない。生き残るのは、変化に最も敏感に適応出来る種なのである」
                 チャールズ・ダーウィン(1809?1882)

頑にこだわることが美しい場合もある、醜い場合もある。
これはあらゆる事象に言えるのではないであろうか?

金融危機になった。
だから職を失った。
もうだめだ。

本当にそうであろうか?

僕にはそう思えない。

農業や林業にはまだまだ可能性がある。
ということを先日の山形県の金山町で思い知った。

そこに住む栗田和則さんに会ってお話を伺ううちに、
自分の中で凝り固まりそうになっていたものが溶け出してしまった。

減反政策と林業の不振に喘ぎ、離村していく人達を見送りながら、
栗田さんは次々と新しい手を打ち出し、
生き延びて来た。

「また環境が変わったら、何か対応します」
と淡々と語る氏の言葉に僕の中が動いた。

氏のことをもっと知りたければ「十三戸のムラ輝く」という本を読んでいただきたい。

僕も栗田さんとは比べるべくもないが、
なんとか生き延びて来た。

それはやはり身体教育研究所での稽古が効いているのだと思う。

何かにとらわれずに流されずにただ「乗る」ということ。
ただ乗ればいいし、それ以外に出来るわけもない。
そういったものとぴったりひとつになることばかりをやってきた。

そうすると道はいつも開かれて来た。
最初は不思議だったが、今はそれが当たり前になって来た。

すべての形容詞は「虚」と捉えることができる。
「実」は「虚」でしか表現できないという性質を持つ。
「実」は己のみが感覚出来るものなのだ。
「実」は無限に変化しながら永久に変化しない。
己のみが感覚出来るものを他者に伝えることは困難を極める。
だからこそ、この三次元では「虚」が生きてくるのだ。

しかし「虚」だけにとらわれるとおかしくなる。
金融しかり、メディアしかりだ

形容詞はあくまでも形容詞だということさえ忘れなければ、
変化に対応することにびくびくすることはない。
またびくびくすることを拒否することもない。

限界や限定、困難といったものは人を次の次元に押し進める。
虚実を生かす術はもっと見直されていいと思う。

目的はただひとつ。
生き延びること。

客観的に物事を見るとは?

「私は客観的に物事が見れる」と言って辞任した首相がいたが、そもそも客観的とは何なのだろう?

大辞泉によれば、
1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。
2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。

ということらしい。

ここにプラトンやヘーゲルを持って来たら話がややこしくなるのでやめるけど、要は自分のことを「他人事」として観るということなのだろう。

科学というのはこの客観的な作業の積み重ねらしいのだが、僕にはどうにも違和感がある。

もちろん客観的事実というものはある。
いつ、どこで、誰が、何をした。というのがそうだ。
(最後の「何をした」というのは気を付けないといけないけど。。)

でも客観的事実の把握だけで政治は出来ない。
ここに主観の力が大きく必要になってくる。

つまり「客観的事実はこうだ。だから私はこれをする」というところだ。
かの人は「これをする」という状況ではなくなってしまったのが気の毒だとは思うけど。。

話がそれた。
何を言いたかったんだっけ?

あ、そうだ。
客観的になるということは、客観的事実の把握だけでは事足りないのでは?と今朝、起きてからふと思ったのだ。

今、僕は心臓が苦しい。
まぁ「主観的」に言わせてもらえば身体の調整中ということなのだが、「客観的」に言えば病院に行くべきなのだろう。いけばすぐ入院させられてしまうだろう。血圧が下がってるし、心臓の機能が低下してるからね。

でも僕は知っている。あと少ししてこれを抜ければ、さらに強力に元気になってしまうことを。これが自然の働きだということを。だって心臓病じゃないんだから。でも今、検査したら心臓病にさせられてしまう。これが「客観的」な見方の弱点であり限界だ。

客観的に「金融危機だから首になりました」では人生たまったものではないだろう。しかしこういった時にこそ役に立つのはその人の持つ「主観の力」ではないだろうか?

>1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。

これは人であるかぎり無理がある。魂になる以外、客観性が保てないということになってしまう。そういうつもりでというのなら分かる。

>2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。

これは難しいけど努力する価値はある。だって、自分の思い込みに縛られるのは愚かなことだから。(けっこうやってしまうけど)

量子物理学での「観察者」の問題ではないけど、結局、世界は空っぽの入れ物ではないので、自分と世界とを分けて考えること自体が究極的に無理なのだ。観察者の振る舞いが「対象」に影響を与えてしまうのだから。。

宇宙は言う「私は世界で世界は私だ」

でも生活レベルではこれでは不便になる。
夜、家に帰ったらまたっくの他人が家にいて「これは私の家です。何故なら私は世界で世界は私なのだから」とかいわれても迷惑ことになってしまう。
映画にしたら面白いかもしれないけど。。

結局、主観と客観を絶対的に分けることは不可能なのだから、「分けたつもり」でやるしかない。

僕はこう思う。
客観とは主観を広げていく作業。主観をどんどん多様化させていく作業なのではないかと。


また心臓が苦しくなって来た。
客観的にも主観的にも休んだ方がいいと思うので横になります。

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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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