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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

言葉=伝わって意味をもたらすもの。
それは言語の姿をとるとは限らない。
だれかの行動も言葉となる。
何かの気配も言葉となる。
風景も時に言葉となる。
あらゆるものは言葉になる可能性を持っている。

言葉が私と響き合うと意味、あるいは無意味が生まれる。
それははいつも私との響き合いでで生まれる。
あらゆる意味は常に自分から生み出している。

しばしば他者の「意味付け」に悩む人がいる。
悩むことはフリ?ズしたコンピュータの画面を眺め続けるのに等しい。

「肉を切らせて骨を断つ」という言葉がある。
「あいつには骨がある」という言い方がある。
「骨にしみる」という言い回しがある。

「骨」は人の芯にあるものとして捉えられて来たようだ。
武道のコツも骨を意識して動くことにあるらしい。

言葉の送受信にもこれは活かせるのではないかしら?

情報を「肉」で受け止めると、それはくぐもったまま不明瞭な印象だけを残す。
それは不明瞭さゆえに不安感だけを育む。
不安は不明瞭な響きが生む。

情報は「骨」に響かせねばならない。
それは明瞭な響きを身の内に生む。
たとえそれがよくない情報でも明瞭さ故に覚悟が決まる。

実際、骨で動くことを意識して生活してみると、
いろいろなことがはっきりしていくような気がする。
様々な動きが楽になる。

油抜きの生活も手伝って寒さが骨身にしみるこの頃、骨ばかりが感じられる。

骨に響くものが生む明瞭な言葉。
多分、私はそれだけを信じている。
響きの良い身体を育みたいと思う。
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「Aburanuki」一月経過!

ダン先生に「油抜き生活」を厳命されてからはや一月。
「油抜き」と一口に言ってもこれはなかなか大変だ。

まず外食がほとんど出来ない。
サラダもドレッシングの掛かったものはだめ。
マヨネーズもダメ。バターもダメ。
肉もダメ。魚は一部の白身魚以外ダメ。
ということは洋食と中華は全滅。
日本食も油揚げの入ったみそ汁や揚げ出し豆腐でさえ食べられない。
寿司か蕎麦の限られたメニューしか外食は出来ないのだ。
パンさえも自然酵母の一部のものを除き食することができない。

病院食でもここまでではないという感じの食生活になっている。

僕は腹が決ったら徹底的にやる。
自然、家での食事が中心になってくる。
油抜きで野菜中心の献立というのは以外と美味しい。
日本の伝統的な食生活をなぞるような生活になる。

こんな生活を一月、なかなか面白いことになって来た。

まず、「香り」が生き生きと感じられるようになって来た。
僕は鎌倉の森の中に住んでいるのだが、
今まで感じなかった様々な香りが僕の世界を豊かにしはじめている。

感覚も以前とは違った意味合いで繊細になって来たようだ。
ギターを弾いていても軽く感じる。
使い慣れない大型の刃物も基礎を教えてもらったら意外なくらい楽に扱える。

なんかもろもろ楽になってきた。
まぁ、誰にでもオススメ出来るものではないのかも知れない。
僕は現在、あと7?8kgは無駄な「油」が身体にあるので、「油抜き」が効くのだと思う。(これを春までに消費してしまおうという魂胆なのだ)

むろん良いことばかりではない。

まずやたらと寒い!
起きて何かしている時はそうでもないのだが、寝ようとするととにかく寒いのだ。フロに入っても(道後温泉でさえ!!)身体が暖まらない。湯たんぽしてもベルや子供たちがふとんの中で温めてくれていても寒くてしょうがない。体内の油を消費しているからかしら? 

それから風邪がなかなか経過しない。
先月末から引いている風邪がさらに悪化して来て、二、三日寝たきりになったしまった。しかし考えようによってはじっくりと身体をリニューアルしているようでもある。身体の輪郭の感じが前より繊細になって来た。

しかし今日くらいから、何とか這い出さねばならない。
映画の作曲と録音を日曜までに済まさねばならないのです。

18日からは石川ツアー、帰った当日から北京に飛び、北京電影学院でポスプロ、中央戯劇学院で講演。

問題は中国で油抜きの食生活が果たして可能なのかということだ。。
4泊五日を断食で過ごそうか?
きっと無理だろうな。。

薪割り

昨日薪割りをした。

しかしただの薪割りではない。
古武術家の甲野善紀先生の指導で「鉈」「斧」などの刃物を用いた身体運用法を学ぶ貴重な機会を与えられたのだ。

甲野先生はダン先生の盟友で、僕も何度か稽古場でお見かけすることはあったが、実際に親しく接っしていただくのはこれが初めてだった。

甲野先生のほれぼれするような動きを目の当たりにして、
鉈や斧が何故このような形になっているのかがはっきり観えてくる。

身体の延長としての道具の姿とその道具の扱いを通じて身体の中に節度を育てて行く過程。

それは民俗学と文化人類学と人間工学と歴史学を同時に修得しているような不可思議な体験だった。

身体運用法はその感覚の追求が要になる。
「感覚」といってもこれほどはっきりしないものはない。
これを伝えるのは至難の極みだとつくづく思う。

言葉で伝えるのがとにかく難しい。
相手が生き物だから機械操作のマニュアルの文章のようにそれを読めば誰でも分かるというようなものではない。

例えば「引き絞る」という言葉も人によっては異なった感覚を指す言葉になる。これが伝統技能の伝達の難しさになっているのだが、この伝承の過程まで洗練されているのが日本文化の面白さだったりする。

鉈を扱う時、
「右胸が落ちて行く過程に鉈を乗せるとスムーズに動作が出来る」
と甲野先生が言う。

「右胸が落ちて行く」と言われてもそれって何?となるのが一般的かもしれない。しかし、そこにいたほとんどの人が内観的な身体操作の経験者だったので、かろうじて共有された言語感覚を用いて無言の「行」が進んで行く。

言葉は体験を通じてしか共有することが出来ない。
しかもそれは永久に不完全なものなのかもしれない。
しかしだからこそ人は集うことが出来るのだ。
その孤独だけが確実に共有されたものなのだから。。

普段、振り回すことのない斧も「型」に入ることで以外に楽に扱えることを知った。

いやぁ、道具というのは本当によく出来ている。
長い年月を掛けて培われた「機能美」。
それは仕事するだけでなく、扱う者の感覚をはっきりさせる。
まさに「道」が「具わる」ものだと実感する。

自然と共に暮らす人々がその道具を用い働く時、何故にあれほどまでに寡黙で美しいのかが分かる気がした。

それはパソコンを何万年いじっていても生み出されることのない身体的充実感。

人は「道具」とともにある生き方を選ぶべきなのかも知れない。

何の抵抗も無く、まっぷたつに割れた時の快感。
僕の身体の中にあるわだかまりも一瞬で消滅してしまう。
薪割り凄い!!
これは本当に身体に良いね(笑)

ひとくくりといっしょくた

これは「事実」と「真実」の構造と同じくらい大事なこと。

官僚だから
政治家だから
サラリーマンだから
おたくだから
ゲイだから
学者だから
何々人だから
等々

「大体官僚は悪人だらけだ、あいつら全員死ねばいい」
ということを言った人がいた。

それに対して僕は
「あなたは官僚全員に会ったことがあるのか?彼ら全員が死んだとして国の機能はどうなるのか?そもそも日本の刑法で死刑の判決が下されるような官僚をあなたは知っているのか?知っているのなら何故告発しないのか?」
と尋ねてみた。

ひとくくりにする人は何でもかんでもいっしょくたに考えてしまう。
問題がそれで解決するならとうに解決しているはずだろう。

「所属」で人をひとくくりにするのは大変危険である。

僕はほとんどの社会問題は「所属」の問題ではなく「構造」の問題だと考えている。だからネットも含めたメディアリテラシーの問題をコツコツ積み上げているし、地域のメディア力の向上といったことも仕掛けている。

それが社会の構造問題の解決に貢献すると信じているからだ。
そのためには様々な「所属」の人たちの協力がいるし、「所属」を越えた協力もいる。

ひとくくりといっしょくたの危険性を僕は中国に通うようになってから学んだ。それ以前は中国に対して正直いいイメージを持っていなかった。
でも付き合いはじめていろいろなことを知ったし、尊敬すべき沢山の人たちと出会った。北京電影学院の客員教授といっても日本で言うところの名誉教授なので、講義しても何してもお金は出ない。なのに身銭を切って通いながら、いろいろな事業を進めているのは将来の子供たちにつけを回さないためだ。

その後、いろいろな国の人たちとの付き合いが激増し、メディアから流れるイメージからどれだけ我々が「ひとくくりといっしょくた」の罠に陥れられているのかということを知った。(アフリカのイメージもケニアに実際に通いはじめてから変わった)

今、われわれが「ひとくくりといっしょくた」のイメージで外国に対し、対岸から舌を出すだけでは真の未来は来ないと思う。

いろいろな「所属」でそれぞれの立場としての付き合いと、それを越えた人間としての付き合いがあることも知ることが出来たのは大きい。

構造を変えるのは生易しいことではないかもしれないが、我々が「ひとくくりといっしょくた」という悪癖から抜けて、真摯に物事と向き合う時に必ず道が開かれると信じる。

今日は富士山明日は愛媛

今日は北京電影学院の劉教授や「三つの港の物語」の監督の李君たちと富士山に行ってきました。

中国の人達はやはり富士山が好きらしい。
今の季節でも4合目までは車で行けるのに吃驚。
行ってみたら中国人の観光客がたくさんいて面白かった。

しかし近くで観る富士山の頂上はやはり迫力がある。
まさに神の山という感じ。

さすがに映画人らしく様々なアングルで写真を撮りまくっていました。撮ったものを見せてもらうともの凄くいい感じで撮れている。やるな?やっぱり。。

横濱学生映画祭のあとはだいたいこういう風に親睦を深めるのだが、お互いを理解していく過程がとても刺激的で、いつも僕は幸福感に包まれる。
「一期一会」とはまさにこのことを言うのだろう。

日中韓共同製作映画「三つの港の物語」http://www.movie150.com/
も中国作品はいち早く撮影が終わり、あとはポスプロを残すのみというところまで来た。日本と韓国も負けてなるものかと監督も先生も燃えてたなぁ?。

あっ、他人ごとじゃなかった。僕も今月半ばまでにこの映画のサウンドトラックを完成させなければならないのだ。

久しぶりに燃えるぜ!!!!!

中国の映画のトレーラーを観たけどかなりいい感じになってるんだよね!
これは燃えるわな!!

しかしプロデューサーとしての仕事もやならなければなりません。
というわけで明日から、中央戯劇学院の路教授たちと一緒に愛媛にいってきます。今、すすめているEarth Voice Projectの一環で、2月に中央戯劇学院から優秀な生徒を招聘して四国八十八ヶ所のショートフィルムを撮影しなければならないのです。

同時に、映像教育システムの構築と感性価値のビジネス化を軸にした上映ネットワークを作り上げるための基礎を固めてきます。

地域のメディア力を受信と発信の両面で活性化するプログラムを愛媛をはじめとした四国で展開していきます。

音楽も楽しくなって来たし、(特にアコースティックギターでのサウンドメイキング)仕事も動いて来た。
油抜きのおかげで寒いけど身体もしまって来た(笑)

富士山から霊気をたっぷりともらって来たので当分は死なないでしょう。

時間が足りな過ぎる。。

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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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