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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

Good News Only!

沖縄から帰りました。
umi

今回はほこぴーさんのオーガナイズで粘土団子のW.Sを行ないにいったのですが、いろいろと話しているうちに話しが広がり、メディアのことになりました。

そこで僕が「暗くて悪いニュースばっかりをメディアが流すから、子供達が不安になる。だから24時間良い事ばっかりのニュースを流す放送局が欲しい」と漏らしたらこれが大受けしていまいました。

「Good News Only!」というインターネットTVを前から作りたいと思っていたのですが、多くの人たちに映像の撮り方から編集、配信の仕方までを教えたら、この番組は実際に成り立つという事に沖縄で気付きました。

子供から大人まで映像の「型」を教えていけば、流通性の高い映像制作が可能になります。このメソッドはもうあるので、あとはこれを伝えて実践していくだけということになります。

「物事の良い所を見つける」能力を僕は身体教育研究所の稽古で身に付けました。これを映像に応用する事は容易です。これがうまく行けば、実は世界はいいニュースであふれているという事に気付く事が出来るかも知れない。
umi

参加者の皆さんから「沖縄だからこそこれをやる意義がある!!」という力強い言葉をいただき、「Good News Only!」の実現に動き出すことになりました。

沖縄通いも始まります。
お楽しみに!!!

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798

今日はアジアを代表するアートスペース「798」に行って来ました。
789看板

元工場跡地を再利用し、NYのSoHoの様なアートスペースを産み出した。
最盛期は300件を超えるギャラリーが軒を連ねて、中国の現代アートのメッカとしての地位を確立した。

しかし最近レンタル料が高騰しアーティストが借りにくい状況になってしまった。

それでも面白いアートにたくさん触れられる貴重な場であることには変わりない。
美術館の中で写真を撮れなくなるなどのシンポも見られたし(笑)
789美術館

ここに来ると本当に気持ちが解き放たれる。
何でだろう?

街全体が大きなスケールを持っていること。
人の多様性が日本では考えられ無い程高いこと。

どうもその辺に理由があるようだ。

価値観というのはひとつにすると力になるが、
その源泉の多様性を確保しなければ全体としては衰退の方向に向かう。

バランスの問題というよりダイナミクスの問題だろう。

これは愛にも言えると思う。

「距離を測るより、観るべきものの幅を広げる」

私はこれで行こう!!
と何故か強く思う北京の夕暮れでした。

ビル

身体感覚談義

昨日、日中韓共同・横浜開港150周年記念映画「3つの港の物語」の日本編の完成打ち上げがあった。

鹿児島の父の病院から東京五反田のIMAGICAまで直行。
主演の八名信夫さんや遠藤久美子さん、そしてスタッフ達から暖かい出迎えを受ける。

今後、この映画をいかにたくさんの人たちに観てもらうか、中国や韓国の学生の質の高さ等が話題に上る中、「身体性」というところに話しが向かっていった。

日本の時代劇が消滅したのは、刀を扱える身体が消滅したから。
身体感覚は生活の中で育まれる。
小さい頃の「育ち」が後々ものを言う。
いかに身体全体を運用していくのか?

などなど結構DEEPな話題になって来た。

「Sence」というのは本来身体感覚に由来しているので、
どれだけ身体を深く使うことが出来るかというのがその善し悪しを決めるのは言うまでもない。

「Sence」の悪くない連中は結構いるが、
それを非常に狭い範囲でしか運用出来ないのが実情のようだ。

深い身体感覚に根ざした「Sence」は、
様々な場面で役に立つ。

事業の運営も「Sence」がもの言う。
学校で習う事なら誰でも出来る。
しかし、現実はいつも変化していくし、
昨日の正解が今日もそうだとは限らない。

僕は「物事にいくつもの見方を見出す力」が一番欠乏しやすい力ではないかと思う。これが足りないと結局物事が進まない。

例えばRainmakerしかり、
日中韓共同製作映画しかり、
Earth Voice Projectしかり。
無一文、無知識、無組織からそれらは始めていったのだ。

ある程度のレベルまでもっていければ、そしてそれが大きくなる必然性を持っているのであれば、実力のある協力者が出て来る。

身体感覚は日々磨かなければ廃るだけだ。
これは恐ろしい事だ。
だけど磨けば道が広がるという事も意味する。

ようは磨き方だ。
僕にはダン先生がいたので磨き方のヒントをたくさんもらうことができた。

それでも偏ったものになるのは仕方が無い。
だって身体は一人一人違うからね。
だからこそいろいろな人と能力を持ち寄る意味があるのでしょう。

この日記を書いている今、僕は正座をしているのだが、
当然足がしびれて来る。
これを自分の中心感覚を移動し変化させながら、
しびれを取り込んでいくという作業を無意識にやっている。
それが何の役に立つのか?
知りません。

言いたい事は常住坐臥、感覚を磨くチャンスはあるということだ。

身体感覚というのは陽炎のようなものなので、それを捉え、運用する事は至難の業だ。しかし、僕は野口整体の稽古のおかげで、それを体系化して運用する方法を手に入れることができた。

これほど僕を助けてくれるものは無い。あとはこれをあらゆる場面を通じて徹底的に磨いていくことだ。

よく、「大変でしょう?よく精神的にに持ちますね」と言われるのだが、
大変なのは「お金」のことだけす。僕の場合は。

「お金」は何をやるのにも必要だが、感覚を総動員してもそれが動き出すのは一番あとになる。だから「うまくいく」と分かっていても、実際に資金的に事業が回って来るまでのタイムラグをどう乗り切るか?という事だけが僕にとっては問題になるのです。

精神的に参るなんて事は空想だにつかない。
だって精神なんか使わないですよこんなことに。

使うのは身体感覚だけです。
だからもちろん身体的に疲れます。
疲れたら深く眠れば良い。
下手に「精神」なんか使うから眠れなくなるんだと思います。

反省する暇も自慢する暇もない。
ただ感覚を磨くという事実を積み上げていくしか無い。

分かったような気になっていると、たちまち停滞する。
もともと分かる訳が無いものなのだ。

ただただやっていくしかない。
それが僕のやれるただひとつの事。


というような事を話したら、皆さんしっかり理解してくださいました。
さすが「感覚商売」で生きる方々ですね。
この辺りからまた新しい仕事が生まれそう。。。
実に楽しみですな。

幸せは能力

能力だから磨くことができる、とエーリッヒ・フロム先生は仰っています。
磨き方はその人それぞれの「Sence」がものを言うらしいです。

生き延びる

父が、今年二度目の危篤に陥り家族全員で鹿児島に来ています。
「もうダメらしい」という母の言葉に、
「この前も持ち直したじゃないか」と反発する心と、
「間に合わなかったらどうしよう」という気弱な心が鬩ぎあう。

飛行機で鹿児島空港にそれからタクシーを飛ばして病院へ。
何とか生きていて欲しい。
どうしても今死なれたら困る。
これで死ぬような弱い男ではない。
あのとき頭の手術を止めればよかった。

いつの間にか口をついて出る独り言。
タクシーの運転手さんも事情を察して飛ばしてくれる。

父は僕と違って無口な男だ。
どんなにつらい事や大変なことが起きても最後にはポツリと
「しゃんなかたい」と言って、静かに受け止めていた姿が思い出される。

僕に関しては本当に苦労をかけたと思う。
さんざん悪さや父の意に添わない事をしてきた。
ひどい交通事故を何度も起こしたり、
身体を壊して何年も引きこもったり、
一人息子でありながら父の会社を継がなかったり、
挙げれば本当にきりがない程がっかりさせて来たと思う。

いったい父は僕の事をどう思っているのだろう?
無口故に、また態度にも表さない昔気質の男なだけに、僕は掴みきれないでいたのだと思う。

でもそんな父でも一度だけ心の中を見せてくれた事がある。

僕の結婚披露宴の時に父が最後に来場者にお礼の言葉を述べたのだが、
その時の言葉を忘れる事が出来ない。

「私は平凡な男です。その私の息子もご覧の通り平凡な男に育ちました。皆様のお力添えをお願いします」

僕は何故かその時、父の僕に対する計り知れない愛の深さを感じた。

平凡とは程遠い生き方をして来た僕は、
父にとってはどこにでもいるただの「息子」なのだ。
僕は父の大きさをその時まざまざと思い知った。
父の持つ「育ち行くものを見つめる眼差し」の尊い優しと力強さに打たれた。

その父がこの世から消えようとしている。
人は永遠には生きれない。
それは分かっているつもりだ。
だけど生き延びて欲しい。

病室に駆け込むと父は生き延びてくれていた。
意識はなかったが、とにかく息をしてくれていた。
いろいろ管を突っ込まれてはいるが、とにかく生きていくれていた。
持ち直して今は安定しているとの事。
何という生命力!!
「何かあったら連絡をします」という病院の人の声に背中を押されるように、疲れの見える母を伴いひとまず実家に戻ることにした。

翌朝、再び訪ねるとなんと意識が戻っていた。
僕は感動した。
もうダメだと医者から匙を投げられたのに生き延びているその姿は、
人が生きる事の尊さを現前させている。
僕の問いにかすかだがうなずいてくれる。
孫達の顔を見て嬉しそうだ。
まだ熱があり予断は許さない状況だが、とにかく生きている。

僕はつくづく思う。
老いは醜いものではない。
それは愛しいものなのだ。

いつか別れは来る。
だけどそれは今じゃない。

その時までは「生き延びる」姿を孫達に示してくれるだろう。
もう一度言いたい。

老いは醜いものではない。
それは愛しいものなのだ。

生命をつなぐため

娘:「ねぇ、お父さん、人は何で生まれて来て、生きて、死んでいくの?」

父:「生命をつなぐためだよ」

娘:「ふ?ん、そうなんだ。。なんか嬉しいね」

父:「なんか嬉しいね!」

大人の関係

人と人というのは面白い。

昔ある人が、『ヨーロッパのミュージシャンはバックステージで「Fuck You!!」と言い合ってもステージ上では尊敬し合ってプレイ出来る。日本人なら絶交だよね(笑)』と言っていたのを思い出す。

なんでこういう事が日本人は出来ないんだろう?
とその当時は思い悩んだもんだ。

だけど日本人でもこういうことができる人は結構いるという事に気付いた。
それは僕の周りの「大人」の人たちだ。
だてに長い事は生きてないという感じで、頼もしい。

確かに若いうちは難しいのかもしれない。
特に自分に自信のない連中には。
その気持ちは分かる。
僕にもそういう時期があったと思う。

最近では「ウンコたれ」とののしり合っても、しばらくするとまたなんか一緒に始め出す事が多い。

ののしり合ってもどこかに「いい所」を認めている。
お互い実力があれば、結局そうなるものなのかも。

しばらくほっとけば相手の事も静かに見直すことができる。

やっぱ大人はいいは。

一歩踏み出したいのなら

躊躇していけない。

躊躇も逡巡も捨て去って進まなければすぐ後戻りしてしまう。
よく「一歩一歩進め」と言うけれど、それは躊躇したり逡巡したりしていいという事ではない。

もし新しい世界に一歩踏み出したいのなら
背骨を図太くして、
呼吸を深くし、
後先考えず、
常識はかなぐり捨てるしかない。

ロケットは発射の時が一番推力がいる。
推力が足りないと地球の重力に捉えられてしまう。
あえなく墜落ということになりかねない。

姿勢制御はあとでいくらでも出来る。
まずは飛び立つのだ。

違う

「上品」と「上品ぶった」は違う。
「格式」と「格式張った」は違う。

実力の有無にそれは起因する。
実力は一朝一夕に身に付くものではない。

弱い人間はたとえセンスがあっても、それを力強くのばすチャンスをいつも逃してしまう。
 
「弱い男」に捕まると女は無駄に苦労する。
勉強にはなるかも知れないけど、繰り返さない方がいい。

弱い男の特徴は物事に対して「バカにしたような態度」をとることだ。
自分が弱いから、物事の「いいところ」を見出すことができない。
だから結局物事が見えないし、偉そうな事を言う割には自立できない。

もちろん実力の主要因は強さだけではない。
弱さを力に変換している人たちやグループはたくさんいる。

うまく行かない時にはうまく行かない理由がある。
それを真摯に見つめる態度を身につける事が何かを成し遂げる時の基本中の基本だろう。

しかし、
自己を真摯に見つめる態度と自己を卑下することを一緒にしてはならない。
それは「違う」のだ。

「格式」と「格式張った」を分けるもの、
「上品」と「上品ぶった」を分けるものは
「too much」の有無という事だろう。

「too much」は技として使う場合、もしくはそれを使う主体に愛嬌がある場合は外部に対しては有効だ。

しかし「too much」を自己に対して与え続けると困ったことになる。
ここで鵜飼いの話を思い出してほしい。


「too much」に強く鵜を操れば舟はバランスを崩すだろう。
「too much」に弱く鵜を操っても舟はバランスを崩すだろう。

バランスを崩す事を技として使うなら次の動きにつなげることが出来るが、
そうでなければ、ひっくり返るだけだ。

ここで迷惑なのは、ひっくり返っている事に気付いていない人たちだ。
自力で気付いてもらうしかないのだが。

違いに。



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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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