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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

意志の強さ

意志が強いということは今いるところから移動しないというイメージがあるが、これが間違いの元だ。

意志が強いということは、目標を定めて状況に応じて飛び石を踏むようにどんどん移動して行ける足腰の強靭さがあるということだ。

何かをじっと見つめているとだんだん焦点があわなくなって来る。
焦点を合わせる筋肉が疲れてくるからだ。

だから瞬きしたりしながら筋肉を緩めたりしながら集注感を持続させていく。
これが人間の特徴なのだ。

どこかの首相が「ブレた」とよくおとがめを受けたけど、
瞬きをしないように頑張るというポーズをとらずに強力な跳躍力で移動し続けていたら、
誰も文句は言えなかったかもしれない。
だってもの凄い勢いで目標に接近していくんだからね。

留まろうとすると目標がブレる。

「筋肉が疲れて来る」という自然現象を嘆く人はいない。
意志を支える「筋肉」が疲れたら他の部分を使えばいい。
つまり移動していくのだ。

転換していくものに乗りながら目標を見据え続ける。
サーフィンみたいにね。

つまり「移動」させていくのだ。
バランスを取りながら。

バランス。
それこそが意志の強さの正体であり本質であり尺度なのだ。

だから意志が弱いと嘆く前に、
バランスの取り方を学んだ方がいい。

というわけで、次回は超簡単にバランス感覚を身体化する方法をお伝えします。



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ケニアとエチオピアの国境付近にトゥルカナ湖という湖がある。
P1000980.jpg
(飛行機のナビでは緑が豊富に見えるけど実際の景色はもうひとつの写真のように凄まじい砂漠化!)

火星に突然湖が現れたような光景がマーク・リゴディスの「The Last Song」というドキュメンタリー映像で見ることが出来る。

この作品がRainmaker Projectをケニアで行なうことの決定打になった。

トゥルカナ湖はアフリカ大地溝帯の中にあり、
北部ではルーシーという人類最古の女性の化石と言われているものが発見されていたりする。大地溝帯は「人類生誕の地」とも呼ばれている。

先日出演したラジオのコメンテーターをやっていた日大の先生が、アフリカでは今、1年で日本列島と同じ面積の森林が失われているという話しをしていた。
P1000979.jpg

それと関係があるのかどうかは分からないけど、トゥルカナ湖も年々縮小しているらしい。

人類生誕の地と言われる場所が砂漠化している。
自分の親が病に倒れているのに放っておけるだろうか?

粘土団子の乾燥地で有効性は横浜国立大学とナイロビ大学のチームによって証明されつつある。

僕の今の最大の夢は母なる湖、トゥルカナ湖の周りに大規模涵養林を産み出すこと。

理論的には粘土団子を用いることで出来るはずだ。
小型のコンクリートミキサーで大量の粘土団子を作り、
それを計画的に高性能なラジコンヘリで撒きまくる。
スペースシャトルから肉眼で確認出来る程の大規模涵養林が20年で出来る。

なんとかしたい。
誰か本気で一緒にやってくれる人が欲しい。

Lonely Boy, Lonely Girl

P1000986.jpg


「誰も私を分かってくれない」

と嘆くひとりぼっちな君。

でもちょっと待った!

「分かる」というのは結構難しいぞ。

「誰も私を分かってくれない」どころか自分のことも分かっていると言えるかな?

自分のことも分からない存在である私たちが他人のことを本当に「分かる」ことができるのかな?

これは古今東西の頭の良い、粘り強く考えることの出来る人たち(哲人達)が何千年も頭をひねり続けても答えが出ていない大変なテーマですぞ。

そんな迷路にはまるよりも僕はこう思うことにしています。

「分かりたい」という姿勢が伝われば、それは分かり合えたことになる。

僕はLonelyな気分が結構好きです。
一人っ子だったので結構Lonelyが心のベースにある。
でも行きすぎたLonelyは病気になっちゃう。

心からLonely病を消滅させる方法を特別に教えましょう。

それはね、
全身全霊で誰かを助けること。

今の僕はそのことを知っている。

もし出来るなら、そのことを知らなかった頃の僕にそれを伝えたい。

ぼーっと好き

私ではこうである、
何故なら。。。。

という三段論法のような思考法は限定されたシチュエーションでは効果を発揮するかもしれない。


でも何となく別に。。
というのが結構現実には多い。

「ぼーっと好き」というのが結構長続きしたり、自分を支えてくれていたりするのに気付ことがある。

気張らず好き。
これいい感じ。

いろいろな人の「ぼーっと好き」を集めていくと面白いかもしれない。
映像化しても面白いかもしれない。

なんてことをぼーっと考えてるのが、
私は好きです。

浮いて結構

人の感覚の多様性が失われているのに、どうやって内需を拡大するのだろう?

自分の価値観は自分で決めることが出来る。
価値観の幅や質を豊かにすればする程人生は豊かになる。
自分次第でどうにでもなる。

しかし現実はそうはいかないようだ。

小津安二郎の「お早う」という映画のなかで、
登場人物がテレビ時代の到来についてこう語る。
「一億総白痴時代という人もおりますな」
50年前の映画だ。

情報の発信者がテレビという強力な洗脳装置を使って価値観を操作する時代がやってきたのだ。


先日参加したあるイベントで奇妙な体験をした。
何万人という人が集う野外フェス。
そこに来ている人たちの無個性さ。
同じ顔をした女子達、
その子達に引っ張られるヘリウム風船のような男子達。

こぎれいではある。
しかしなんというかオーラが薄い。

「こうすれば個性的に見えます」という「情報」に素直に従う人々。
個性的であろうとして集団に埋没してしまう皮肉。
個性的というのは少なからず「浮いた」感じを周りに与えるものだ。
でも浮くのはいやなのだ。
ただそれだけなのだ。
だからオーラが薄いのだ。
ただただこぎれいなのだ。

北京に行くとこうはいかない。
人々は生命力に溢れている。
そこに生きる人たちのオーラも実に多様性に富んでいる。
商売もそこいらで激しく行なわれている。
「あなたいつの時代から来たんですか?」
というような人がたくさんいる。
もちろん僕の生徒達は今風なファッションに身を固めている。
しかし人間の出すオーラが個性的だから、
存在が埋没することがない。

それは僕の偏見が産み出した妄想なのだろうか?
でもそう感じているのは僕だけではなかった。
「なんかみんな同じに見えますね」
と一緒に行ったスタッフが口を揃える。
そのことがかえって僕を憂鬱にさせた。

どうやら僕の偏見というわけではなさそうだ。
不特定多数の人たちが集まることで、その傾向がはっきりして見えただけだ。

自分の価値観を人から操作されていることに気がつかない。
情報汚染。

解毒の方法はあるのか?

もちろんある。
丁寧なメディア教育を学校教育に早い段階で入れるというのもそのひとつ。
しかし壁も多い。

これをこっそり突き崩せていけないか?
ということばかり最近考えている。

「浮いて結構」という人たちが闊歩する社会。
面白いと思いません?

こんなの作ってもらいました。

この前ギギちゃんという人がやって来てインタヴューを撮影していきました。
そのインタヴュー映像と僕たちがケニアで撮って来た映像をもとに彼女が作ったものがこれです。





ちなみにギギちゃんはこんなのもやっています。
30aHEADS

映像が「つなげる」役割を担っていく。
Rainmaker projectが新しい広がりを持ち始めたようです。
なんか鼓動を感じますね。

眼差しの彼方

生命を見つめる眼差し。
それは育ち行くものを見つめる眼差し。
育った先には当然死が待っている。
そこから先は分からない。
だから今を生きる。
精一杯生きる。
と、なるのが本来の生命のあり方だろう。
人の生き様は、その眼差しの彼方にあるものが決める。

ニッポンポレポレ

社会は縦割り、学校は横割り。
個人は孤立化し、孤独化し、断絶しているように見える。
しかしそれは「見える」というだけに過ぎない。

それは人の意識が産み出しているものだ。
その気になればそんなものは跡形もなく目の前から消し去ることが出来る。

風や鳥に国境線は関係ない。
風や鳥はパスポート無しでどこにでも行く。
それらの行き先を規定するのは自然条件だけだ。

昔の人は絶望すると自らの命を絶った。
今の人は他人を無差別に巻き込む。
そういった形で孤立を乗り越えようとしているように見える。

孤立や孤独を乗り越えるのに他人を殺す必要はない。
そもそも人間は完全に孤立することなど出来ない。
大きな誤解だ。
生きていれば、息もする、水も飲む。
空気や水から「孤立」してしまえば人間として存在出来ない。
つまり死んでしまう。

「そんな話をしているのではない、要は他者とのコミュニケーションの不在を言っているのだ」という人もいるだろう。

そういう人は自分なりの予定調和的な「コミュニケーションの型」にこだわり過ぎているのではないだろうか?

だからその型から外れたら「コミュニケーションの不在」ということになってしまう。

僕の経験上、それは「コミュニケーションの不在」などといったような問題ではないような気がする。


例えば海外に行くと(そもそも言葉の問題もあるが)普段、無意識に使っている「コミュニケーションの型」が全く通用しないことがほとんだ。物事に対する感じ方も違うし、習慣も違う。

まさに孤立化だ。
そこから抜け出す道はただひとつ、自分の習慣的な「コミュニケーションの型」をずらさせていくということだろう。

僕がケニアに行き始めた頃、いつもイライラさせられた。
物事の進み方が異常に遅く感じられる。例えば、短く切った鉄筋が必要だとする。日本なら町の鉄工所を見つければ注文通りのものがあっという間に出来上がる。ところがかの国ではそうはいかない。信じられない理由によりそれは限りなく遅延していく。

また、ある時スプレーのペンキを買おうとする。日本なら簡単だ。ペンキ屋さんかホームセンターに行けばすぐ手に入る。ところがかの国では物事はそう簡単に運ばない。缶とスプレーが違う店で売っていたりする。理由は分からない。そこでみんなで手分けすることになる。そうするとたいてい何人かは全く違ったものを手に持って帰って来る。ヘアスプレーを持って来たりする。そんなこんなで異常に時間がかかる。イライラする。僕は孤立化していく。

でも僕は自殺もしないし人も殺さない。
ではどうするのかって?

最後は笑うしかないのです。
僕が笑うとスタッフも笑い出す。
すると孤立の再生産が終わる。

「ペンキのスプレーは諦めよう、何か他のもので代用出来ないか考えよう」

こういった境地をかの国では「ポレポレ」と呼ぶ。

それはフランス語の「セ・ラ・ヴィ」をラスタマン・ヴァイヴレーション化したものと考えていただいたらいいだろう。

「ポレポレ」に孤立もへったくれもあったもんじゃない。
これはケニアで学んだこと。

居場所を変えれば自分を取り巻くものも変わる。
ものの見方が変われば自分が驚く程豊かな可能性の中に投げ込まれていることに気付くことも出来る。

日本の場合、コミュニケーションの不在より「ポレポレ」の不在の方が重要課題のような気がする。


よい番組と思えるものに出逢えた

僕は普段はTVを観ない。
それは子供達のためにというのが大きい。

見せたいものを選択し見せたくないものを排除するということが、今のテレビ放送の構造上できない。だからうちにはアンテナもチューナーもない。

しかしそれはまたほんのわずかではあるが存在する素晴らしいプログラムとの出逢いの機会を消失させることでもある。


4月に、帰省先でたまたま二つのNHKの良い番組に遭遇した。

母が観ている大河ドラマ(俳優の声がひどい)につき合っているうちにNHKスペシャルが始まってしまった。田中眠氏のナレーションによるアマゾン奥地に住む限りなくプリミティヴな生活を送る部族のドキュメンタリーだった。

ヤノマミ族というアマゾンの奥地で1万年以上、独自の文化と風習を守り続けている部族がいる。

衣服はほとんど着用しない、シャーマニズ、集団でのサル狩り、白蟻に遺体を食べさせて送る埋葬、茅葺きと木で出来た円形住居による集団生活、女だけの出産。

原始の記憶を呼び覚まされるような作品。
動物としての人間、そして動物とはかけ離れた存在としての人間という両義性を改めて考えさせられる作品だった。

女達は出産後、その子供を育てるか精霊として地に返すかの選択を自ら行なう。好きな時に眠り、誰憚ることなくセックスして、腹が減ったら狩りに行く。全ては共有で笑みが絶えない。

ヤノマミ族の生き方は「自然と共に生きる」ということの究極の姿のひとつだと思う。

「自然と共に生きる」ということの凄みを突きつけられて価値観が揺らぐような気持ちになるのと同時に、人間の生き方の多様性とその豊かな可能性に目を開かれるような爽快な気分も芽生えた。

どう生きたっていいのだ。
本当に。

坦々と目の前に起こることを撮影し、「こちら側」の価値観による定義付けを排した作品作りに好感を持った。


二つ目の番組。

鶴見俊輔氏がNHKの番組に出ていた。
ETV特集「鶴見俊輔 ?戦後日本 人民の記憶?」


「永遠の感覚は生きている感覚の一部としてある」
これは名言だと思った。

「魂は永遠だから、死を悲しむ必要はない」とうそぶく人が稀にいる。
僕も魂は永遠だと思っている。
しかし、だからといって死を悲しまないという事は無い。

考えてみて欲しい。
「永遠」というもの程悲しいものがあるだろうか?

その悲しみは人である限り永遠について回る宿命のようなもの。

だから僕は嬉しいことをたくさん作って行くような生き方をしていきたいと思う。

いずれにしても見事な作品たちだった。
テレビも悪くないという危険な思想に取り付かれそうだ(笑)

そして今、こういう映像をどんどん作っていきたいという欲望に僕は苛まれている。

ラジオ日本に出演します。

ラジオ日本に出演します。

14日(火)の朝8時15分くらいから始まるそうです。
Rainmaker Projectについてのお話をします。

興味があって早起き出来る人は是非お聴きください(笑)


放送局:ラジオ日本
周波数:1422
2時間半の生ワイド番組
番組名:ザ・ホットライン

番組内容:40代をはじめとした大人のリスナーに
向けての情報発信プログラム

コーナー : おとなの時間
パーソナリティ:片桐八千代
コメンテーター:青木一能(日本大学文理学部教授)
時間:8:15?(各7?8分ぐらい)

心はどこにあるのか?

今の子に「心はどこにある?」と訊くと「頭」と答えるらしい。

僕らの頃は「胸」。

江戸時代の人は「肚」だったらしい。


試しに僕の小学校一年生になる長男に同じ質問をしてみたら、
「肚と胸」という答えが返って来た。

続いて「機械は電気で動くけど、生き物は心で動くんだよ」ということも教えてくれた。

なかなかいい息子だと思った(笑)

創造力

今日、Green TVの取材を受けました。
http://www.japangreen.tv/

僕と横浜国立大学の藤原教授の撮影を行ないました。
藤原先生が取材を受けているのを観ながら思い浮かんだ言葉がある。

「地球に木を植える」


環境問題というのを考える時に一番重要になるのは想像力だ。

南極の氷が溶ける。
でもそれは多分南極に行かなければ実感出来ないのかもしれない。
でも想像力を豊かにすれば、その恐ろしい光景は瞬時をまぶたに焼き付けることが出来る。

以前、Rainmaker Projectを始めたばかりの頃、知らないおじさんにこんなことを言われた。

「あんたなんでケニアなんかで木を植えてんだ。日本だって木を植えなきゃいけない所はたくさんあるでしょう」

それに対する僕の返事はこうだった。

「日本に木を植えようが、ケニアで木を植えようが地球に木を植えることに変わりない。ケニアの方が日本より遥かに大規模緑化に向いている。だからケニアでやってんだよ」

(実際はもう少し強い口調で言ったのでそのおじさんは腰を抜かして逃げて行った。かなり怖い思いをさせたと思う。)

こういう想像力のきわめて貧困な人たちがこの国には多いような気がする。

想像力が貧しければ当然、創造力もお寒いばかりだろう。


今日は七夕なので、正直に願いを短冊に書く。
僕の願い方は「?なりますように」とかいうか弱いものではない。
「?なる」という断言形で書くのだ。

これは僕の先生のお父さんの教えだ。

これが実は効くんだな。

想像力=創造力のある人なら必ず効く。

老婆心ながらお伝えします。

速度と密度(弐)

僕は極端なせっかちだけど、
何でも速ければいいとは思わない。
その逆に何でもゆっくりであればいいとも思わない。

要は「その場に合った」速度でということだろう。

ハイスピードの生活にうんざりしてスローに行く。
原理的には良く理解出来る。

だけどワニに追われてゆっくり逃げる奴はいないだろうし、
早く育てと出たばかりに芽を引っ張る奴もいない。

スローやファストは自分のその時のその時の都合で決めればいい。
どっちかに生き方を決めるのは愚かだと思う。
だけど生き方を決めてしまって「見えないワニ」に追われているのに気付かなかったり、「見えない芽」を知らずに引っ張っている人達は多い。

生きてればいろいろある。
それなのに偏った態度で乗り切ろうとする。
それはファンタジーの世界に生きるのと等しい。

ファンタジーは生きている実感を産み出さない。
「生きている実感」は密度の変化が産み出している。
この場合の密度とは自分の中にある中心感覚の有り様のこと。
「密度」としか言いようのないものだ。

偏った態度で生きているとRealが遠のく。
これでは密度の変化が生まれない。
だからいつも物足りなくて、自分以外のものに価値を求め続けてしまう。

密度を生む生活態度というものが存在する。
「同型転質」と「転型同質」

「同型転質」 型を維持しながら質を変えていくこと。
「転型同質」 型を変えながら質を維持して行くこと。

これが密度を産み出す基本構造。
これを念頭に置いて活動すると不思議と物事が動いて行く。
密度の変化に人は動かされるからだ。

これに反して
「同型同質」と「転型転質」という態度では結局何も起こらない。

これはつまらない演奏を思い浮かべれば理解が早いだろう。
「同型同質」は退屈、「転型転質」は軽薄ということだ。
密度の変化無きものに耳を傾けるのは時間の浪費だ。

これは全ての人間活動に当てはまる。

やり方をひとつに決めない、こだわらない。
しかしやると決めたら次の動きが始まるまでテコでも動かない。
この辺にコツがありそうだ。

僕の人生はこの実証実験になっている。


速度と密度(壱)

夜、車で走ると虫がライトに寄って来てどんどん死んでいく。
虫は自動車が危険なものということを感じるまで進化していない。
当然だ、車がその辺を走り始めてまだ数十年しか経っていないのだ。

人類が月に行ってからまだ50年。
その後いろいろなものが出て来た。

僕が子供の頃テレビで見た、SF系のドラマに登場して来た携帯電話は今は誰でも持っている。

CDが登場し、そのノイズの無さに驚いた。
インターネットが登場し、原理的には世界中と瞬時につながること出来るようになった。
フィルムからデジタルに変わり、動画のノンリニア編集が可能になった。

確かに便利にはなった。

しかし、CDよりはレコードの方が音楽的だし、レコードより蓄音機の方がさらに音楽的だし、蓄音機よりライヴの方が徹底的に音楽的だ。

メールのやり取りより、筆跡の分かる手紙の方が血が通っているし、
出来れば直接会って話すのがいいような気がする。

インターネットはその匿名性からマナーやルールといった「人の風韻」を形成する重要な要素をないがしろにしやすい。

フィルムをつなげるよりデジタル化してノンリニアに編集する方が遥かに楽だし、いろいろな映像効果を産み出すことが出来るが、全身全霊をスクリーンに投入出来るような色合いや風味が消え失せたような気がする。

確かに便利にはなった。

この間タルコフスキーの「ノスタルジア」を久しぶりに観た。
もちろんフィルム撮影で、CGなど微塵もない。

しかしその作品はただただ美しい。

「人は美を産み出すことは出来ない」
というアーティストがたまにいる。

気持ちは分かる。

だけど自分よがりをやめて家族を大事にしながら生きていれば、
そのことの光り輝くばかりの美しさに気付くだろう。

美しい風景を産み出している人はこの世に大勢いる。

内容は全然違うけれど、「ノスタルジア」を観ていて人の風景というものに行き着いた。沖縄でもそうだった。

1秒間24コマのフィルムが醸し出す「美」。

便利とはつまるところ速度の向上のこというのだろう。
しかし人の生には密度が必要だ。

密度をどうするか?

車のライトに誘われて死んでいく虫たちと今の人たちの違いは天から観れば限り無く零に近いのかもしれない。

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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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