困った人がいる。
なんでその人はいつも同じパターンで人を困らせるのだろうかと考えていたら、思い至った言葉があった。
それは「ポーズ」という言葉だった。
本音と建前というものがある。
これは生活をスムーズにするための智恵でもある。
本音と建前は使い分けることで力を発揮する。
これを見事に使い分けることが大人の最低条件となる。
これがつまり分別ということだ。
しかしこれが出来ずに人に迷惑かける人がいる。
本音と建前は分別のもとに整然と使い分けられる。
ところが「建前」の代わりに「ポーズ」を入れてくると話がややこしくなる。
そういう人は本音を隠すためポーズをとっている。
そういう人は自己中心力の虚弱さを超克しようとせず、
虚勢を張るためにポーズをとっている。
ポーズとは虚勢に他ならない。
普段はさも分別ある大人のように振る舞っているが、
何かがトリガーになると豹変する。
大事な仕事があろうが何だろうがおかまいなし。
誰に迷惑をかけようがおかまいなし。
簡単にほっぽり出す。
しかもそれを人のせいにする。
非常にたちが悪い。
もっともらしい言い訳を自分の中に繰り返し呪文のように唱え、
さらなるポーズの世界に耽溺して行く。
ポーズで生きる人の言動は、
たとえどんなに高尚なことを話していたとしても、
軽薄さから逃れることは出来ない。
だって所詮ポーズなんだからね。
ポーズで生きる人はそのことを
周りにいる人全部が知っていて、
つきあってくれていることに気づかない。
そこに分別のかけらも無い。
でも僕はその人の中に美しいものをしっかりと発見している。
その美しさ自体を本人は恐怖している。
恐怖しているが渇望してもいる。
だからポーズになるのだが、このままではきついのでなんとかしたい。
分別を身のうちに培うにはしっかりと自分に中心を持つことが必要になる。
これは小さい頃からの身体の使い方に影響される。
躾とはまさに自分の中心を育てることを意味する。
自分に中心のしっかりある人は虚勢さえも使いこなせる。
そういう人の虚勢は愛嬌になる。
そうでない人の虚勢は時に悲惨、時に滑稽、時に迷惑をまき散らす。
身体を整える意味がここにもある。
虚勢を張らなくてもすむ身体。
また虚勢さえも愛嬌にしてしまえる身体。
大人の躾としての体育というものが存在する。
それをうまく伝えたい。
そうすれば本人も僕達も楽になる。