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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

愛媛に到着

飛行機で愛媛までやって来ました。
雲の下は雨でも雲の上はいつも晴れ。
こういうのはいいね。

2日に「お遍ロードムービー」の完成披露イベントがあり、
プロデューサーとしてシンポジウムに参加します。
本編30分ですが五分バージョンはこちらです。
お遍ロードムービー(5分バージョン)


中国の高監督と女優のジャン・ウェンさんにお願いして四国を一周して撮りました。

「ロードドキュメンタリームービー」とでも言えばいいのでしょうか、ロケハン無しのぶっつけ本番だったけど、非常に面白い経験をしました。僕自身、四国八十八ヶ所お遍路巡りというが初めての体験で、その深い歴史に触れたことがとてもよかったです。

巡礼。

お礼しながら巡って行く。

それは人生そのものの姿。

これで四国とは福岡さんに続いて縁が出来ました。
「粘土団子」と「地域メディア」

四国を中心に面白い動きが起きてくると思いますよ。
会社も作っちゃったしね。
四国の魅力をばっちりソフトパワー化して行きます。

食べ物旨すぎ(笑)


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自然発生

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自然発生が一番力がある。

恋愛、緑化、仕事、健康、その他諸々のことにそれは言えると思う。

ギャンブルでさえそうだ。
だから人為的な操作=八百長は激しく嫌われる。

自然発生することに意味がある。

人は「意味」に生きる生き物なので、このことは特に重要になる。

自然発生させる。
これがあらゆる「技」の目的だ。

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人間も自然の一部である限りはこのプロセスに関与出来るはず。
しかしこれが実は一番難しいのも事実。

偶然と必然の境が揺らぐ場所を目指していくしかない。

そんなに簡単なことではないだろうけど不可能とは思わない。

だってたまに出来ることあるもん(笑)

方法はいろいろある

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ブレークスルーの方法はいろいろあります。

逃げたり、立ち向かったり、あきらめたり、やめたり、防御したり、攻撃したり、泣いたり、よけたり、ぶつかったり、考えたり、助けを求めたり、瞑想したり、行動したり、試してみたり、別れたり、愛したり、憎んだり、無視したり、悲しんだり、喜んだり、一人でやったり、誰かとやったり、就職したり、退職したり、結婚したり、離婚したり、病院に行ったり、自然治癒力に任せたり、一句詠んだり、絵を書いたり、本を読んだり、彼氏を引っ掻いたり、テレビを捨てたり、リラックスしたり、緊張したり、興奮したり、散歩してみたり、映画見に行ったり、旅に出たり、死んだふりしたり、いろんなふりしたり、妄想にふけったり、人の手助けをしたり。。。等々

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僕は「前向き」というのが絶対とは思わない。
もちろん「後ろ向き」が絶対とも思わない。

そういった意味では手段は選びません。

おっかなびっくりだって全然かまわない。

僕にとって最高のプライオリティは「臨機応変」ということです。

性格や体力、そして時と場合に応じていろいろな方法を使い分けたらいいのだと思います。「絶対、傷ついてはいけない」とか「絶対、幸せにならなければならない」とか抽象的な概念にあまりとらわれず、むしろそれらを都合よく利用した方が人間の進化の過程に適っていると思います。

熱は上がりきれば(役目を果たせば)自然に下がって来ます。
中途半端に熱を下げることを考えるより、むしろ上げきる方に意識を向けた方がいい。
その方が熱はさっと上がって、さっと下がります。

同じように肩の力が抜けないときは無理に抜こうとせず、むしろ力を入れきった方がいい。
そうすると自然にほどけて来ます。

上手に行ききらせると、次の扉がちゃんと開きます。どうもそうなっているらしいです。もちろん科学的に証明することは無理ですけど(笑)

祈ったら行動

祈ることはどこででも出来る。

例えば、「砂漠化を食い止めて、森を再生したい」
と祈ることは、その場所にわざわざ行かなくても出来る。

しかし、その祈りを実現するためには、実際にその場所に行って木を育てなければならない。そのためにはきちんと組織を作ったり、資金を作ったり集めたり、事業計画を立てたり、現地の人達との協力関係を築いたり、次々と立ち現れてくる問題に対処したりしなければならない。

祈る気持ちはとても尊く、大事だと思う。

だけど祈りを実現するためには行動しなければならない。
始めは出来ることからでいい。

そしてだんだんと自分の出来る範囲を広げていくのだ。
自分に出来ないことはやれる人を探して対処する。

そうなってくることで祈りは成就に近づくのだと思う。

祈りから始まる。
だけどそれは始まりにすぎない。

祈りでだけで終わらせてはならない。

と自分自身に言い聞かせ続けている。

空想し過ぎ

「ワニに食われるよりはライオンに食われた方がいい」
と、何となく思うのは差別だろうか?

朝、散歩に行った時「ケニアならこんな森があれば猛獣だらけだろうな」なんて思ったりしたら空想が飛んでしまった。

もちろんどちらにも食われたくないに決まってるのだけど(笑)

差別なんて結局、空想の産物なんだよね。
空想して震え上がったり、怒り狂ったり、気味悪がったりしている。

きっと空想を制御する技が必要なんだね。

ゴミ

昨日、葉山にある湧き水を汲みにいった。
小さいお堂のあるところだが、
ゴミが散乱していた。

以前、丹沢の湧き水の名所に行った時にもゴミが散乱していた。
美しい場所にゴミを平気で捨てられる感覚の人間がいる。

二、三年前、海外のアーティストを車に乗せて都内を走っていた時、目の前の車の運転手がタバコを窓から捨てた。そのアーティストが「日本の車には灰皿がついていないのか?」と僕に真顔で訪ねた。

「育ちが悪いから」という言葉を英語に出来ずに困った。

「育ちがいい」ということは、自分を大事にすることの大切さを保護者から学べる環境で育ったということだと僕は思っている。

自分を大事に出来れば、周りの人や環境に配慮することが可能になる。
これは躾けの基本中の基本となる。

自分を大事に出来る人間は、その自覚が周囲まで広がる。
だから自分のいる場所を汚すことを嫌う。

それは自分を汚すこととイコールだから。

子供の頃、ゴミの投げ捨てをしたら母にこっぴどく叱られた。
当時は反発心も起きたが、今はその理由が分かる。

僕は上品な人間ではないかもしれない。

でもゴミの投げ捨てはしない。
自分を汚したくはないからね。

少なくともそういう感覚は育ててもらった。
母に感謝しなければならない。

根拠なきものたち

ここで言う「根拠なきものたち」とは自分の内なる声のことです。


最近、婚活中の女子から相談を受けることが多い。

大半はもう女子という言葉を使えるのかどうか迷う年代の人たちなのだが、
「女子から子が取れたら結婚できるんじゃない?」とか言っても通じぬことが多い(笑)

まぁ、それはさて置き、婚活に必死になっている人たちの話を聞いていると、なんか共通した違和感を持つことが多いのに気づいた。

結婚を難しく考えすぎているような気がする。

僕から言わせれば結婚なんて簡単だ。
結婚相談所に行ったりお見合いしたりして相手を見つけ、婚姻届を出せばそれで済む。

てなことを言い出すと、
「そんな簡単には行くわけないでしょう!!!」
「ちゃんと責任ある生活を築かなければならないんだから!!!」
というような反発を受けることになる。

じゃぁ、どういう結婚を考えているのかと訪ねると、
「条件」の話にしかならない。
年齢、収入、容姿、性格、持ち家の有無、健康状態、等々のことだ。

しかしこれらは随時変化する。
年はとるし、収入も変化する。
容姿もかわれば、性格も多少は変わるだろう。
持ち家は古くなる一方だし、健康なんでどうなるか分からない。

自ら列挙した結婚の根拠となるものたちが、実はすべて移ろい行くものなのだということを彼女たちは知っている。知っていてもそれにすがるしかない。当然不安が残る。だから前に進めない。

もちろんこれは話を極端にしているのだが。。

理想の相手とか理想の結婚ということにこだわるのもいいが、
そういったこだわりが案外、障害になっているような気がする。

結婚なんて、何となくするもんだと僕は思う。
「特に根拠はないのだけど何となく。。この人かなって。。」
という感覚が実は人を一番動かすのだ。

血のつながっていない者同士が、何十年も一緒に暮らしていくことが結婚生活なのだから、「何となく」をよすがにお互いの関係を育てていくしかない。
そりゃ地味なもんだ。

「理想」ほど移ろいやすいものはない。

何となく流されていく感じ。
急流にも濁流にも静かな流れにも、ただ身を任せていく感じ。

結婚なんてそんな頼りないものだと思う。
長く一緒にいればそれなりの愛着も湧く。
子供が出来ればただの男と女だったものが「親」に変身していく。
なかなか凄いと思う。

婚活中の女子に、僕はよく「好み」より「相性」を重視した方がいいよとアドバイスする。

その人と何でも気軽に話せるか?
常識とされているものを棚に上げて一緒に考えることが出来るか?

例えば、
子供を小学校に行かせるのか?
持ち家やマンションを何十年もローンを組んで購入するのか?
ずっと日本で生活するのか?
自分たちの親の介護をどうするのか?
子供達に予防接種をさせるかどうか?
等々。

与えられた情報で形成された結婚観が自分の中にあることに気づき、根拠なきものたちを感じ取る力を養うこと。そしてそれに流されていく潔さを育てることが大事なような気がするのは僕だけだろうか?

流されながら見えて来るものたちを使って、「結婚の意味」を紡い行けばいいと思う。始めに意味や根拠を求めても、それはあくまでも仮説でしかない。

一人として同じ人はこの世に存在しないのだから、一つとして同じ結婚も存在しない。

仮説を証明するために結婚するのも意義あることかも知れないが、僕は見知らぬ場所を旅し続ける方が面白いような気がする。

結婚を科学しても、それこそ意味があるように思えない。
もちろんそれも人それぞれだと思うけど。

しかし僕は今まで生きて来て、科学的に恋に落ちた人を見たことがない。

魂を感じる人。

言葉で理解し合うのではなく感じ合うことの出来る人。

そういう人と出会うことが、生きていることを無条件に素晴らしくしてくれる。

前提が危ない

「前提を与えられるとそこから動くことが出来なくなる」という人間の習性。
前提の中で生きるのは安心感があります。それは僕も同じです。

だけどその前提が崩れていて、その前提通りに物事を動かしていたら危険な状態になるとしたら、皆さんどうしますか?

既成のプログラムにバグが含まれていて、そのバグがジンワリと人間の時間感覚を超えたスパンで影響を与え始めている。

温暖化をはじめとした問題はエコな生活だけで解決できるほどシンプルな問題ではないと思います。

「やらないよりまし」というレベルでは到底乗り越えることは出来ない状況。
ケニアの荒れ果てた大地に立って、僕は現実をいやというほど思い知らされました。

歌ったり踊ったり祈ったり議論している場合じゃない。
私たちが信じている前提を早く更新しなければならない。
そして大量の粘土団子をあの土地に計画的に播かなければならない。

それがゲームの世界なら、プログラムは決まっていて、例えば農業のゲームでいきなり「粘土団子」というのを使ったりはできない。粘土団子を使えるようにするにはプログラムを書き換えなければならない。

でも現実の世界ならそれは可能なのではないかしら?

僕は「粘土団子」という新しいプログラムを検証もせずに、
拒否し続けている人たちを見て来ました。
そういう人たちは「科学的データ」を出せというのです。

だから「科学的データ」を取って来ました。
でも「科学的データ」を見せてもまだ動き始めようとしない。

プログラムを変えなければ人類は滅びてしまうかもしれないのに、それをしようとしない。

ゲームのプログラムはプログラマーにしか変えることは出来ないけど、社会のプログラムは一人一人の力で変えることが出来るはず。

そのことを伝えるプロジェクトでもあるのです。

Rainmaker Projectは。

考えさせるアプリ

マイミクさんからの紹介で、「サンシャイン牧場」というアプリに参加することになった。

僕は基本的にはアプリで遊ぶ暇がないので、全くDSも何もやらない人なのだが、
今、どういうメディアが動いているのかということはいつもレポートしていなければならない立場なので「とりあえず」という感じで始めて見た。

内容は単純で、
自分の畑に種を播いて作物を育てる。
水やりや虫取りを行うことでレベルアップをしていく。
レベルアップをしていくと買える作物の種類が増える。
あるレベルに達すると畜産牧場も始めることが出来る。
マイミクの中で「サンシャイン牧場」をやっている人の畑に行って、
手伝ったり収穫物をいただいたり、いたずらしたりすると、こちらのレベルアップの速度が上がる。
といったものだ。


僕はRainmaker Projectで実際に緑化や作物作りに関わっているので、最初は「何だこんなヴァーチャルな畑」という感じだったのだが、始めてしばらくして気づいたことがある。

「販売価格の高い作物を作りたいという気持ちや肥料を与えてでも早く収穫をしたいという気持ち」が僕の中に強く生まれて来たのだ。

これが大げさに言うとモノカルチャーの原理なのではないかと思った。

粘土団子による緑化の基本は、
販売価格の高い作物だけを選ぶのではなくて、その土地に合ったものを見つけるために事前にその地域で育っていたもの考慮して選択はされるものの、多様な種子を粘土団子の中に入れる。肥料を与えず、自然の力を生かしきる。
ということがある。

アプリの中の世界だから自分の中に効率重視の感情が生まれたと言えないこともないが、もう少しこの現象は掘り下げる必要があるような気がする。

こういうアプリなら悪くないと思った。

立ち上げに時間がかかるもの

プロジェクトの中には立ち上げに時間がかかるものがある。

Rainmaker Projectをやっていてつくづく思うのは、
マネージメントに長けていない僕のような人間が、
プロジェクトマネージャーの立場にいるという哀しさだ。

原因は簡単で、無償で立ち上げ期間を責任もって運営していける人がいないからということになる。

しかもRainmaker Projectの場合は「立ち上げ期間」というのがのびる傾向にある。やればやるほど問題点が明らかになってくる。

ただ粘土団子を作って播けばいいという当初のごくシンプルな構想は打ち砕かれ、記憶を消去された人々(植民地政策により)に自然との共生のあり方を伝えていきながら共同体を再生産していかなければならないという、とてつもなく大きな現実が見えてきたりする。

当初見込んだ立ち上げ期間は、どんどん延長されていく傾向にある。

立ち上げ期間というのは一番重要でかつ面白いものだ。どんどん未知なるものが立ち現れて、自然の摂理や人間というものに対する従来の印象を刺激的に更新してくれる。

もちろんそんな悠長なことを言っている場合ではないことも分かっている。

現在、一年で日本列島と同じ位の面積の森林がアフリカでは消失していっているという話をこの前ラジオに出演した時、コメンテーターの先生が言っていた。

時間は限られているようだ。

ある程度の実績は積んできた。
今年に入ってやっと念願の粘土団子の科学的データを取ることに成功した。
粘土団子の乾燥地における緑化力の優秀さを、横浜国大の藤原教授やナイロビ大学のムチーソ教授やマテンゲ老師のおかげで科学的に証明することが出来た。

この「証拠」をもとにRainamaker Projectを大規模にリニューアルしたい。

優秀な各種専門能力を有した人材群。
自前の収益構造を持ったプロジェクト運営組織。

しかるべき人にリーダーになってもらい、
さらに事業を拡大していってもらいたい。

それが私の夢です。


Rainmaker Projectのご参考に
Green TV rainmaker

勉強中

無知だから無能とは限らないけど、
無能は無知から来るんじゃないかと思い至り勉強しています。
主に本から知識と思考体験を得ております。
読書にはいい季節になったし、とても楽しいです(笑)



下町彷徨

最近、墨田と縁が出来て何かと出向いている。

地域メディアプロデューサー育成や映像制作の仕事で関わり始めたのだが、
非常に居心地のよい土地だということに気づいた。

鎌倉もそうだけど、人が住み始めて時間が経ったところ(最低数百年単位)というのは独特の落ち着きがあるような気がする。

高さ610メートルという新東京タワー、スカイツリーが建設中なので非現実的光景が押上のあたりに現れているにも関わらず、近くの商店街は昭和の風情を残し、迷い込むと方向感覚を失うほどのカオスに溢れている。

映画「ブレードランナー」の世界よりサイバーパンクな現実がそこにはある。

非現実的な構造物の出現にも揺らがない土地の落ち着き。
そこには希薄ながら厳然としたethosを感じ取ることが出来る。

そして彷徨い、包まれることの快楽に目覚めることの出来る混沌が生成されている。
この心地よさは何と言えばいいのだろう。

森や海が織りなす自然ではなく、暮らしが織りなす自然としか言いようのないもの。
混沌が今の世に最も必要とされているものなのかもしれない。

今日の鎌倉はいい風が吹いている。
僕の家は谷戸にあるので森を通した清々しい風が谷を沿うように吹いてくるのだ。

風にはたくさんの情報が含まれている。
身体はその情報をとても精密に受け取っている。
もちろんその情報は言葉にならないものたちだ。

身体の感覚できる情報は僕たちが知っている範囲を遥かに超えている。

窓を開けて仕事をしているだけで、僕の身体は鋭敏にそれらの情報を感受する。
僕の身体が僕の顕在意識とは別にそれらの情報と交感している。
何を「おしゃべり」しているのかは分からない。
しかし、その無数の情報たちが、やがて言語の領域や音の領域にも少なからず影響を与えはじめる。

ただ風に吹かれることは僕にとって大事なこと。

一度たりとも同じ風は吹かない。
太古から一度たりとも同じ風が吹いたことはないのだ。

そこに孕まれた情報は変化し、育ち、雲散霧消し、永遠に刻まれる。

いい風に吹かれる生活。
なんて贅沢なんだろう。

丸の内や霞ヶ関で働く友人たちのことが頭をかすめる。
暮らし方というのは本当に大事だと思う。

Lucky!!

昨日は出羽海部屋にいきそこない、ふて寝したおかげで頭痛に見舞われるという、情けない展開の日だったけど、今日はいい日だった。

まず、仲間が二人やってきて楽しく過ごせた。
教育やrainmakerについての話はとどまるところを知らず、
実現できそうなアイディアがいくつか閃いた。
まさに「三人よらば文殊の知恵」というやつだ。

そして横浜高島屋でもうすぐ始まるイベント用の映像が完成した。

高島屋の入り口付近でモニター上映するものなので、あまり凝った作りにも出来ない。立ち止まる人たちのことを考えて、短めかつシンプルなスライドショーに仕上げなければならない。実はこれ結構難しい。じっくり見る人のためでなく通りすがりの人たちに見てもらうための映像でなければならないからね。これもYさんのおかげでなんとかクリアー!

さらに極めつけは、鎌倉の某有名そば屋に勤めている友人が、打ち立ての蕎麦を持ってきてくれたのです!! まさにサプライズ!

一晩寝かせて明日はいい感じで絶品そばが食べれます!!

まさに捨てる神あれば拾う神あり。
昨日の悔しさは次回への希望に変わるのであった。

うしししし。。


逃した!!

最近、墨田の町おこしに関わり始めています。

その関連で、今日出羽海部屋に稽古の見学に行く予定でした。
しかし、鎌倉駅に行ったら衝撃の事実が。。

工事のため区間運休。。

振替運転もあるけど、直通ではないので何度も乗り換えせねばならず、
30分以上遅れることが判明。
慌てて車に切り替えようと自宅に戻るも、
休日の渋滞でアウト。。

さすがに一時間以上遅れたら一緒のツアーの人に迷惑がかかると判断し、
今回はあきらめました。

またチャンスがあるでしょう。

しかし、本物の相撲を目の前で観るのは初めてだったのでちょっとわくわくしていたんですけどね。。。

やはりぎりぎりで予定を組んではだめですね。。
今日の教訓でした。。。

とほほほ。。。

Green TV 「アフリカに里山を」

「アフリカに里山を」ということで、Green TVさんに寄稿しました。
Green TV制作の映像もあります。
Rainmaker Projectに興味のある方は必見です!

http://www.cop10.com/species-forest/000090.html

持ち時間

流れる水の中に墨を一滴たらす。

墨は予想不能に形を変えながら拡散していく。
やがて見えなくなる。

果たして墨は消滅してしまったのだろうか?

水は一滴の墨を身のうちに受け入れたことを忘れない。
そして水は記憶したことを自ら思い出すこともない。
水とはそういうもの。

そのことを
嘆いたり、責め立てたり、落ち込んだりすることは愚かだ。

でもそれと似たようなことが世間にありふれている。
「?とはそういうもの」というところから出発した方が、物事の成り立ちがよく見える。

変わらないものは「神の御手」に任せ、変えられるものは自ら変えていく。
そうすることで「変わらないもの」も変わっていく。
ただ、それが人の持ち時間を超えている場合が多々あるから実感しにくいというだけの話。

自分の持ち時間を超えたことをやっているんだと思えば、お互いミサイルを構えて遠吠えし合っている滑稽さから抜け出すことも出来る。

また、自分の持ち時間で出来ることを考えれば、何がやれそうで、何が出来そうもないかということをまじめに考えることが出来る。

一度に出来ることはひとつだけ。
それが大したことではないから真剣になれないという人は病気になる。

そういう人は「大したこと」というのは無数の「大したことではない」ことの集積・集合とその働きなのだということを実感する必要がある。

持ち時間は限られているのだから。

薬以上に効くんだけどな

身体感覚の稽古をやれば意識も感覚も広がります。
何より自分の中心がしっかりと座って、
しかも自由という感じになるのがいい。

薬物の即効性は認めるけど、
酩酊を必ず伴うので覚めた時にはご破算になっている。
つまり感覚を練り上げることが出来ない。
そこには成長も無い。
救いも無い。
身体も壊すしね。

意志の強さとは関係なし中毒のループが出来ちゃうしね。
良くないよ。

いろいろ言い訳もあるだろうけど、
結局、うんこたれの戯言ということでしかない。

身体の中に全てあります。
外部のものに頼る必要はまったくありません。

という訳で今から稽古に行ってきます。

「型」にはまれ!

自分の限界を知ることが無限の可能性につながる唯一の道。

限界って大事なんだよね。


有効な限度を与える「もの」のことを古来、日本では「型」と呼びました。
古い有効ではない「型」にはまることは馬鹿げているけれど、
新しい、合理的な「型」にはまることは物事を動かす基本中の基本です。

武道の「型」を思い浮かべたらすぐ気づくと思うけど、
それぞれの技を生み出すには「型」にはまる必要がある。
この場合の「型」は合理的な身体の使い方を支える「動的な姿勢」とでもいえるもの。空手にも柔道にも剣道にも相撲にも弓道にも合気道にも、全てそれぞれの「型」がある。そうすることで小が大を制することが出来たりする。

伝統芸能の本質もその「型」にある。
お能、華道、茶道、武道、歌舞伎、浄瑠璃、和歌、俳句、等々全て「型」。

セレモニーも「型」
スポーツも「型」
仕事も「型」
この世は「型」のオンパレードなんだね。

古い「型」をただ闇雲に守ることは愚かなこと。
どんどん新しい「型」を編み出せばいい。

だけど「型」を破るのには新しいもっと合理的な「型」がなければ力を発揮することは出来ない。
ただ「型」を崩せばいいというものではないのだ。

良いとされている「型」には長い時間に耐えることが出来る合理性がある。
そういうものを打ち崩す「型」を編み出すのは容易ではない。

「型」にはまらないと何も始まらない。
人にも「型」がある。
それだけが、情報を相手に伝える根源となる。

「型無き身体」ほど惨めなものは無い。
エラそうなこと言っても軽薄にしか感じない。
夢を語っても説得力が生まれない。

まわりにいる存在感のある人を思い浮かべてみたらいい。
みんな「型」を持っているはずだから。
よくも悪くも(笑)

日常の生活の中で身体を丁寧に使うことを心がけると、
「型」にはまる準備ができてきますよ。

限度・限界をうまくつかうこと。
つまりいい「型」にうまくはまること。
これが生き抜くコツだと僕は思います。

ぶれる夢とぶれない夢

夢持ってますか?

僕もたくさん持ってます。

夢の中にはすぐにぶれちゃう夢と絶対ぶれない夢があります。

僕の場合、ぶれる夢とぶれない夢にはそれぞれ傾向があります。

ぶれる夢は物欲に関するものが多いですね。

あのギターが欲しい。
あのエフェクターが欲しい。
あのアンプが欲しい。
楽器ばかりですが(笑)

実際,手に入れるとそうでもなかったり、
楽器屋では良い音してたような気がするのに、
実際の自分のセットに組み込んでみるとそうでもなかったり
というような事を愚かにも繰り返しております(汗)

まあ、音というつかみ所の無いものを追求しているので、
しょうがないと言えばしょうがないです。
僕がいい音と感じるものはひとつではないからしょうがない。

お、言い訳に走りかけております(笑)

ではぶれない夢はというとこれははっきりしています。

そこに辿り着くための手段や方法は分からなくてもゴールが明確に見えるもの。

例えばRainmaker Project。
衛星から肉眼で見えるほどの大規模緑化を行う。
人が失った自然とのつながりを新しい次元で生み出して行く。

例えば日中韓の映像やアートによる相互交流を進める事。
アートという人類の感性の進化を支えてきた領域を使って交流やビジネスを押し進める。僕の子供たちの世代にはひとつのブロックとしてこの三国の関係はもっと深まっているだろう。

という風に「抽象的」ではあるがはっきりとそのゴールが見える。
時々ゴールが霧に隠れてもその実在が消える事は無い。

ゴールの実在を常に感じる事が出来る。
というのがぶれない夢ですね。

力尽きるまで

力尽きるまで働けば、ぐっすり眠れる。
ぐっすり眠れば、すっきり目覚める。

だから力尽きることは悪いことじゃない。

うまく力尽きることを学ばないといけない。
中途半端じゃいけない。
でもやり過ぎはもっといけない。
コツは出し惜しみしないこと。
これ本当。

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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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