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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

望遠鏡と顕微鏡

望遠鏡をのぞきながら歩く人はいない。
顕微鏡をのぞきながら歩く人もいない。

危ないからね。
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成し遂げる人たち

何かを成し遂げる人というのは、物事の中に「チャンス」を見いだす力を持っている。

そういう人たちにかかったら、普通の人にはピンチや弱点にしか見えないものが「資源」となる。

成し遂げる人たちは目標をしっかり補足している。だから仮に後退し続けたとしても、いつかは地球を一周して目標に裏からたどり着いたりする。

成し遂げる人たちは価値観の幅が広い。だから、言っていることがどんどん変わってきたりする。しかし言動は変わっても目標がぶれることはない。結局、成し遂げてしまう。普通の人にはそれが理解出来ない。

成し遂げる人たちは、用いる手段の幅が広い。有効と見ればどんなアイデアも取り入れる。普通の人たちにはそれがどう有効なのかタイムリーに分からない。

成し遂げる人たちは、それが有効だと見れば、すぐさまそれを実行する。ぶれない。

成し遂げる人たちは、その行為自体を楽しんでいる。本人は照れ隠しするかも知れないが。

成し遂げる人たちは、目標設定にはこだわるが、その実現化に対しては柔軟な姿勢を持っている。

結局、成し遂げる人というのは肚が出来ていて、腰の決まっている人と言うことになる。

昔からこれは変わらない。


バランス

仕事や生活に於いて、「バランス良く」とか「バランスを大事に」とかいう場合、シーソの真ん中のようなものをイメージする人がいる。

そういう人たちは自分のバランスをとろうとする時に、まず「真ん中」を探ろうとしてしまう。

僕はそのアプローチは間違っていると思う。

バランスは自分のキャパシティや思考のベクトル、尺度といったものの「端」をキチンと把握出来れば自然と定まる。「真ん中」ではなく「端」を見極めることが大事になる。

左右、上下、前後といった「振り子の端」。
深浅、高低、強弱といった「尺度の端」。
この二つの座標軸の交わるところに「真ん中」は存在する。

「分かっていること分かっていないこと」「出来ること出来ないこと」「やりたいことやりたくないこと」等のそれぞれの「端」がはっきりしないうちに「真ん中」を見つけようとしてもそもそも無理があるのではないだろうか?

バランスをとるということは、「端」をはっきりさせるということに他ならない。

水と土の交わるところ

仮説:水と土の交わるところにしか生命は芽生えない。

コンクリートで川を固めてしまえばそれは川ではなく水路になる。

この前、「隅田川」を見たけど、あれは川ではなく「隅田水路」としか言いようのないしろものだった。

あれは川ではない。

僕が子供の頃育った鹿児島でも同じようなことが起きている。

あんなにたくさんの生き物の気配に溢れていた田んぼの水路がコンクリートになってしまっただけで、生命の気配だけでなく、目に見えない「何ものか」の気配も消え失せてしまった。

かけがえのない「場」の持つ豊かさ。
これは多様な生命群だけが紡ぎだせるものなのだ。
この豊かさが人の心の底に安心感をそっと置く。

そっと置かれた「それ」は、そっと置かれた故に無意識に社会の安全を誘導して来た。

生命の多様性が豊さの元型なのだ。

それは社会の安全弁にもなって来た。

水利や安全のためという理屈は分かる。
しかし、もっとましなやり方があるのではないだろうか?

昔テレビで見たテムズ側の上流の光景が忘れられない。
木を旨く使って護岸していた。
手はかかるが、その方が水をきれいにするそうだ。

そりゃそうだ。
水をきれいにするのは微生物。
微生物が生きられる環境はコンクリートの中では生まれにくい。
水と土が交わらなければ、そんな環境を自然発生させることは出来はしない。

イギリス人に出来て日本人に出来ないことはない。
出来るところからやればいい。
経済的理由ですべてをコンクリートにしてしまう時代ではないだろう。
だいたい内需拡大と騒ぐなら、護岸のあり方を見直すことも大きなポイントとなるのではないか? 

その方が農業にもいい影響を与えると思う。
http://www.japangreen.tv/journal/#/000427

生命の気配がなくなると次は人の気配も消えることになりかねないのではないか?

時間はそんなに残されていない。

往年の隅田川の河岸に佇み、憩う人たちの幻を眺めながらそんなことを考えていた。

矛盾

科学的態度を貫くためには、
すべての可能性に自らを開かなければいけないでしょう。
でも人の身を以て、「すべて」のものに対処するなど叶わぬこと。

そこで可能性を絞り込むこととなります。
しかし何を根拠に絞り込めばいいのでしょうか?

「根拠」こそ科学的態度の拠り所。

しかし、その根拠もいろいろございます。

どの根拠に立脚するのかというところを最後は「勘」という非科学的な行動に頼らざるおえなくなったりするのであります。

勘が当たるか外れるかというところはまたまた「運」に左右されたりして。。
勘といい、運といい、非科学的なものの象徴であります。

でも人の身である限り、根拠を突き詰めて行けば矛盾に突き当たるのが、この世の定めらしいのでございます。


空飛ぶ不思議なものの話

先日、「UFOとか見たことないんですか?」と質問された。

「まぁ、ないこともないですね」

「もったいぶんないで教えてくださいよ」

という訳である体験談を話すことにした。


十年ちょっと前だったと思う。
僕がまだ神奈川県の海老名というところに住んでいた頃の話しだ。

その日、何かの用事で車を走らせていた。
車が杉久保小学校のあたりにさしかかった時、
空に変なものが浮かんでいるのに気づいた。

北の方角にそれは浮かんでいた。
銀色の「幟」の様にそれは見えた。
ゲゲゲの鬼太郎というアニメに「いったんもめん」という妖怪が登場するのを皆さんご存知だろうか? それはまさにジュラルミンで出来た「いったんもめん」とでもしか言いようのないものだった。その物体は、東から西の方に移動しているように見えた。

細長い長方形の銀色をしたかなり大きな物体。

最初は、ロープの切れた新型のアドバルーンかなんかだと思っていたのだが、その予想は次の瞬間に打ち砕かれた。

その「いったんもめん」は突然「クシャクシャ」という感じで銀色の球体に変化したのだ。
するとすぐまた「クシャクシャ」という感じで「いったんもめん」にもどる。
そしてまた、という風にその動きを繰り返し始めたのだ。

僕の心臓の鼓動は早まった。

なんだか今まで見たこともない未知の物体と遭遇している。

その時初めて「UFO」という言葉が頭に浮かんだが、それと同時にたくさんの恐怖を伴った疑問が次々と湧いて来た。

もし、あれがいわゆる宇宙人の乗った乗り物だとしたらその宇宙人はどういう存在形態をしているのだろうか?

あんなに形状の変化する乗り物の中にどうやって乗り込んでいるのだろうか?

それともあれ自身は機械とかではなく生き物なのか?

生き物だとしても地球のものではない。ではいったいどこから来たのか?


すると突然その「物体」は消えてしまった。

その直後、自衛隊の飛行機がやってきた。
おそらく厚木基地から飛んで来たのだろうが、飛行機というものが全く原始的な存在に見える。気の毒なほどそれはちゃちに見えた。

それぐらい「あれ」は凄かったのだ。

今でもあれは何だったのか分からない。

朝方、暑さで目が覚めた。
汗をかいている。
昨日の夜は体調が悪かった。
愛媛では朝から深夜まで働きずめだしね。

だけど夜中に身体が熱を出して勝手に調整してくれたようだ。
今はさっぱりしている。

熱はすばらしい。

そういえば愛媛の人間は熱い。
そういう意味でも熱のあるやつはいい。
骨が合って熱いやつ。
クールに見えても熱いやつ。
どれもいいな。

今から道後温泉に朝風呂に行って来ます!
地球も熱い(笑)

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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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