仮説:水と土の交わるところにしか生命は芽生えない。
コンクリートで川を固めてしまえばそれは川ではなく水路になる。
この前、「隅田川」を見たけど、あれは川ではなく「隅田水路」としか言いようのないしろものだった。
あれは川ではない。
僕が子供の頃育った鹿児島でも同じようなことが起きている。
あんなにたくさんの生き物の気配に溢れていた田んぼの水路がコンクリートになってしまっただけで、生命の気配だけでなく、目に見えない「何ものか」の気配も消え失せてしまった。
かけがえのない「場」の持つ豊かさ。
これは多様な生命群だけが紡ぎだせるものなのだ。
この豊かさが人の心の底に安心感をそっと置く。
そっと置かれた「それ」は、そっと置かれた故に無意識に社会の安全を誘導して来た。
生命の多様性が豊さの元型なのだ。
それは社会の安全弁にもなって来た。
水利や安全のためという理屈は分かる。
しかし、もっとましなやり方があるのではないだろうか?
昔テレビで見たテムズ側の上流の光景が忘れられない。
木を旨く使って護岸していた。
手はかかるが、その方が水をきれいにするそうだ。
そりゃそうだ。
水をきれいにするのは微生物。
微生物が生きられる環境はコンクリートの中では生まれにくい。
水と土が交わらなければ、そんな環境を自然発生させることは出来はしない。
イギリス人に出来て日本人に出来ないことはない。
出来るところからやればいい。
経済的理由ですべてをコンクリートにしてしまう時代ではないだろう。
だいたい内需拡大と騒ぐなら、護岸のあり方を見直すことも大きなポイントとなるのではないか?
その方が農業にもいい影響を与えると思う。
http://www.japangreen.tv/journal/#/000427生命の気配がなくなると次は人の気配も消えることになりかねないのではないか?
時間はそんなに残されていない。
往年の隅田川の河岸に佇み、憩う人たちの幻を眺めながらそんなことを考えていた。