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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

男はつらいよ

昨日、熊本に行ってきました。
長男の一馬を連れて。

亡父は天草出身なので熊本県人でした。
熊本城は素晴らしい城でしたよ。
残念ながら休館日で中に入れなかったけど、
優れた城だというのは地形とその威容見ただけで分かります。

銀行に用事があって来たのだけど、
街を歩いても右も左も分かりません。

なんとか目的の銀行を見つけ用を済ませ、さて昼食でもと思って
「新市街商店街」を歩いていたら映画館が目にとまりました。

「お,ボン・ジュノの新作やっているな」と上映作品のポスターを見ていたら、そこに「男はつらいよ」のポスターを見つけました。

亡父が僕と同じ年の頃、「男はつらいよ」を観に、
ちょうど一馬と同じ年頃の僕を銀座の松竹に連れて行ってくれました。

父は送電線工事の会社をやっていました。
高度成長以後の日本の電力の安定供給に尽力して来たのです。

父は身体も大きく声も大きかった。
普通に話していても子供の僕には怒っているように聞こえました。
熊本弁で僕には理解できなかったからかもしれません。
小さい頃、僕は父が怖かった。

だけど大勢の屈強な男達が父に従う姿を観て、
子供心に誇らしかったのを覚えています。

父はほとんど家に帰って来ませんでした。
たまに帰って来てもすぐに遠くの現場に行ってしまう。

ある朝、父が行ってしまうのが悲しくて僕は追っかけていって泣きました。そのことを周りの男達にからかわれ、照れ笑いする父の顔を今も覚えています。

無口で実直な九州男児。

そんな父がしばらく家にいる期間がありました。
盆と正月です。

父は必ず盆と正月には僕を連れて銀座の松竹に行きました。
僕の初めての映画は「男はつらいよ」だったのです。

腹を抱えて笑ったり,時々涙ぐんだりする父を観て、僕はなんだか嬉しかったのを覚えています。

僕は男とはこういうものだということを父と寅さんから学びました。
彼らは僕にとっては未だ超えることの出来ない巨人です。

自分の会社を傾けてまで友人を助けた父。
愚痴も泣き言も聞いたことがなかった。
どんなにつらいことがあっても自室に戻るとテレビを見て大笑いしていた。
「どんな神経をしているんだろう?」と僕でさえ訝しんだものです。

しかし,今は何となくわかる気がします。
過ぎたことや自分の度を超えたものに対してくよくよしてもしょうがない。
機が熟せば物事は動く。
父はそのことを知っていたようでした。

今、僕は大人になり父は鬼籍に入ってしまいました。
しかし映画の中の寅さんは子供の時観た印象と少しも変わらない。
若々しく愚かで魅力的なままでした。

一馬も腹を抱えて笑っていました。
言葉が分からなくても,意味が分からなくても、
人の姿は何事かを語る。

今、僕が映画の仕事に関わっているのも父の結んだ縁かもしれません。

いい映画を生み出します。
家族の絆が深まるような。
父が腹を抱えて笑うような。





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円盤が回る

宇宙開闢以来、どれだけの生命が生まれては去って行ったのだろう。大きな大きな円盤の上にまるで舞台俳優のように私達は立っている。その円盤が回っていく。

時間が立つと円盤が回り、俳優が交代していくように観客には見える。俳優には舞台が変わり、新しい芝居が始まるように見える。

生死は循環して行く。
我々は円盤の上の俳優であると同時に観客でもある。

父の葬儀が無事終わりました。
また円盤が巡り、父に逢える時が楽しみです。

純粋な不純

私の性格を一言で言うと、
「純粋な不純」ということになるらしい。

一見矛盾した概念のようだけど、「だから安心するの」と言われてしまったら「そうなのか」と納得するしかない。

「ただの純粋もいや、ただの不純もいや、でも純粋な不純は素敵」と言われてしまったら、男子たるものここはひとつ素直に受け入れるべきだろう。

「純粋な不純」
う?ん、何となく言い得て妙、な感じ。
純粋な男と言われたら馬鹿にされた感じがするし、不純な男と言われたら大きく傷つくに違いない(笑)

しかし、「純粋な不純」と言われたら、なんだかほめられた気になるのだから、不思議なものだ。

ちなみに私が一番大事にしている感覚は、「臨機応変」なんですけどね。。。

働く女子の駆け込み寺

働く女子の身体が危ない。

ということで、うちが駆け込み寺状態になっております。
それでなくとも僕のまわりは女子だらけで、
仲間に妬まれているというのに(笑)

ま、冗談はさておき、
彼女たちはの身体は悲鳴を上げてますね。
若いのに仙椎はこわばってるし、足首もズブズブになっちゃってる。
そういう子達は身体の使い方が理にかなってない。

今日来た子はすごく良い感覚を持ってたんだけど、
それを発動する機会を生活の中に見出す習慣がなかったのね。
ちょっと教えたら、見違える程いい感じになりました。

デスクワークをやるにしても、ちょっとしたコツを覚えると、
ただ座っていることで身体感覚を磨くことも出来れば、
偏より疲労を改善することも出来る。

学べば学ぶ程、「幸福力」を磨くことが出来る。
幸福は状況ではなく能力だから磨くことが出来るのです。

感覚の豊かな発動の源を体験することで諸々楽になっていく。

別に無理して生き方や食事にこだわることも必要ない。
状況を変えるのではなく、自分の感覚を豊かにしていくこと。

これが「働く女子の駆け込み寺」のテーマです。

同調以前

成功軌道というのがあるのですが、
それに乗るにはコツがいります。

人によっていくつか方法があるのですが、
共通していることは、
「自分のやっていることを社会に持ち込むのではなく、社会を自分のやっていることに持ち込む」ということです。

例えば私は「メディア」について活動していますが、
私が常々いっていることは、
「メディアを社会に持ち込むのではない、社会をメディアに持ち込むのだ」
ということです。

これを「同調」と私は呼んでおります。

例えば私は野口整体を稽古していますが、
稽古場に行く時間がここ5,6年ほとんどとれません。
稽古場でやっている最先端のことは行ける時に行って、
身のうちにそっとおくしかないのです。

しかし私は自分のやっている活動を通して、それこそ24時間稽古をしているという自負があります。

私の商売は感応し合わなければ始まらないからです。

私は、いくつかの大企業やグループで感覚の使い方を教えています。
もちろんそれは、その人たちの活動に活かせるような形で伝えます。

もし分からなければ、噛んで含めるように教えます。
手取り足取り教えます。

むろん稽古場ではそんなやり方はしません。
気づける人だけが前に進むように出来てます。

それは稽古場という非常に限定された集団の中では非常に有効な方法だと思います。
感覚は限定されてこそ豊かに発揮されるものだからです。

しかし、それが外に出れば、全く違うやり方にしなければならないことは、社会人なら誰でも分かることでしょう。

整体を社会に取り入れるのではなく、社会を整体に取り入れなければならないのです。
同調すべきは自分の方なのだけど、長年やっていると他人を同調させようとしてしまう。
こういった態度は知らずに身に付いてしまうようです。

恐ろしいことです。

「だから、手取り足取り教えないんだ。それこそ他者を同調させようとする行為に他ならないのだから」

と言う人もいるのですが、
「同調以前」という問題にぶつかったことがない素人の戯言と聞き流すようにしています。

社会で新しいことに多くの人を巻き込んでいくためには、いつも「同調以前」から始めなければなりません。

同調以前の状況ほど、自分の同調力を試される時はありません。
プロデュースとは同調力に他ならないと、今は誰にでも説明することが出来ます。

最初に未知の状況に切り込んでいく力。
同調することににより同調させていく力。
主客を自由に行き交う面白さ。
そこから物事が生まれることの発見者となる喜び。

同調
喜び
成功

という感じです。

では同調とはどういう感覚のこと言うのか?
何かが新しくなっていく感じです。
すると自分の生活も革まってくる。
時に静かに、時に激しく。

人生は実に愉快です。


Did You Know?

佐久病院の色平先生からこんなサイトを紹介してもらいました。

僕は20年後に大人になる子供達に必要なものは、
1、身体教育
2、メディア教育
だと思っています。

2、に関しては日々新しいテクノロジーが生まれてきますので、
常に新しい情報を得るようにしなければ成りません。
新聞とテレビでは同じメディアリテラシー教育でも内容が大きく異なります。
ゲームやインターネットに関しては新しいメディアリテラシーが必要でしょう。

しかし、新しいテクノロジーは日々生まれて来ていますが、
それを取捨選択しているのは人間です。

この人間の身体というもの、動作というもの、感覚というものを
科学ではなく嗜みとして学ぶ必要があると思います。

テクノロジーに何が起きても人間が中心だということさえ忘れなければ
何も恐るるに足りません。

それに、テクノロジーは無限には発達出来ません。
そこには経済という最強の壁が立ちはだかっているからです。

BRICsも先進国も経済の急ブレーキで、中枢神経に損傷を受けています。
これは回復できるのかどうか。。
違う道を探る必要があるでしょう。
そのためにもさっき言った二つの教育を新たに起こさねば成りません。
やれば分かります。
でも一朝一夕には身に付きません。
特に大人には。
当然のことながら。


Did you Know 2.0

Did you Know 3.0

Did you Know 4.0


能ある鷹は

「能ある鷹は爪を隠す」

という格言があるが、
私はこう言いたい。

「能ある鷹は爪を必要な時に出す」

「機度間」を制するものが物事を成し遂げる。

ただ能力を卑下したり、誇示したりしていても、
何も成し遂げられない。

「私は先生です」といって威張っていても、
効果が出なければ意味がない。

今の時代、能ある鷹は爪を出しっ放しにせざるおえない。

爪のない人は虚勢を張らず、
立場や年齢に関わらず、
爪ある人に謙虚に従うべきだと思う。

それしかこの難局を乗り越えるすべはない。

極意以前

「型」しか流通させてはいけない。
「中身」を流通させようとしてはならない。

伝わるものは伝えたいことではなく。
その背後にあるものだ。

「七人の侍」や「用心棒」が流通しているのではない。
黒澤明という「型」が流通しているのだ。
個々の作品はその入れ物にすぎない。

作品よりも「型」の方が歴史の風雪に耐える。
耐えるだけでなく、優れた「型」はそこから多様な感覚を生み出し続ける。

「型にはまったら飽きちゃうんじゃないですか?」
と時々訊かれる。

そういう時は「俳句を見てください」と答える。
世界中に広がる俳句人口が端的に説明してくれる。

優れた「型」は、上手に限定を与える。
だからこそ感覚が発生する。

習慣的に「型にはまる」ということに拒否反応を示す人がいるが、
出来ればこれは一度ゆっくり考えてもらいたい。

武道や伝統芸能に関わったことがある人は理解が早いはず。

それを見れば、時代を超えて流通していくのは「型」のしっかりとしたものだということが分かる。

メディアリテラシー

いわゆる「官僚」という職業の人たちとつきあい始めて3年ほど経つが、
彼らに対する先入観はほぼ払拭された。

「官僚が悪い」と相も変わらず、なんとかの一つ覚えみたいに言っている連中がまだまだいるけれど、僕もご多分に漏れずその口だった。

しかし、現実の彼らは「人間」であった。
当たり前のことだけど、いい人もいればそうでない人もいる。
僕が仲間に成った連中は本当にこの国や世界のことを考えている人間たちだった。

「右肩上がりの成長はもういい」
「地方の人材を生かし、地方自治を進めていくべきだ」
「効率ではなく生命を見つめる政策を編み出すべきだ」

と言った感じの言葉がばんばん飛んでくる。

東大出て、巨大な官僚組織の中で矛盾を抱えながら必死に新しい次元を引き寄せようとしているヒッピーたち。という風にルビー・トーマスには見えたらしい。

創造的かつ現実的だ。
私の好みだ。

しかし、原発を作るのも、鞆の浦を埋めるのも、干潟を消し去るのも官僚が主体となってやっているのもまた事実だ。

しかし、それは人間がやっているというよりシステムがやっているのだ。
それを擬人法で考えるから話がややこしくなる。
官僚が悪い!!
それですむなら誰も苦労はしない。

現に、どんな政策も我々が選んだ政治家がOKを出さなければ実行されない。
つまり我々が、すべて「それら」をやっているのだ。原理的にも実質的にも。

だとしたらシステムを改良し続けるだけでなく、我々の意識や感覚も改良していかなければならないはずだ。

マスメディアは日々、物事の負の部分ばかりを突きつけ続ける。
しかしそれに対するオルタナティヴを実行可能な行動として指し示すことはない。当然だ、それがメディアの役割だったのだから。

しかしそれでは時代遅れも甚だしい。

僕は新しい次元のメディアが生まれてくると感じている。
そうでなければ、負の情報にされされ続ける子供達の心に明るい光を差し込むことは出来ない。

まずは先入観というものが日々更新され続けるものということを理解しなければ成らない。それはどんな人間にも原理的におこることだということを理解しなければ成らない。
今日、「私だけは大丈夫」と思えたとしても、明日そうだとは限らないことを自覚しなければ成らない。

敵を作って、「反対、反対」と言い続ける惨めな精神構造から脱しなければ成らない。

「マイ箸を使わない人は非エコロジー」とのたまう前に、「割り箸」で生計を立てている人たちに思いを馳せなければならないだろう。

誰も誰かの職業を奪ったり邪魔したりする権利を持たない。
ここが難しいところなのだ。
誰かの不利益が誰かの利益になる場合、
真剣に第三の道を探さなければならない。
それを可能にするには、まず関係性の網の目をマクロに理解すること、
そしてそれからオルタナティヴを産み出すことの出来るシステムを編み出さなければならない。

まさに「編み出す」のだ。

「伝えれば伝わる」という幻想から、はっきりと抜け出すこと。
そのためには情報技法を謙虚さを持って学ぶべきだ。

それがメディアリテラシーの第一歩となる。

洗脳技法と身体技法を学ぶ

キリストは「罪を犯すこと自体が罰なのだ」と言ったらしい。

神道では「罪」とは、本来の自分を「包み」隠すことをいうらしい。

この二つの考えを僕なりに合成してみるとこうなる。

「人は本来の自分を見失うような生き方をしていると自分と他人を損なっちゃう。それはあたかも罰を受けているように見えちゃうかも。。」

しかし、ここで問題になるのは「本来の自分」「本当の自分」とは何ぞや?
ということではないだろうか?

自分探しの旅に出たまま記憶喪失になってしまってさらに行方不明になっている人たちが時々うちにも顔を出す。

世界の苦しみを知らせに旅に出ますと言って彼等は出て行く。
でも彼等は根本的に間違っていると思う。
もはや知らせるべきは「世界の苦しみ」ではなく、その具遺体的な解決法なのだから。

今のマスメディアの問題は、問題や事件や事故ばかりを取り上げて人々に猜疑心と無力感と諦観を与え続けていることにある。

これがインターネットの登場で加速された。
罵詈雑言の割合の多さはいったい何なのだろうか?
言葉は乱暴かつ下品なのに、それから受ける人物像は虚弱なのは何故だろう?

メディアリテラシーはこの国には教育体系として根付いていない。
根付かないうちに対象ばかりが多様化している。
まぁそれはそれで仕方がない。

今、中学生の女の子に「理想のお母さんは?」と尋ねると、元モー娘の辻ちゃんと答えるらしい。

なぜ彼女たちは「私の理想のお母さんは、私の母です」と答えられないのだろう?

自分の価値観の形成を他者に委ねている状態、しかもそれを無意識に無反省に繰り返している状態。

自分の価値観を他者に委ねている人たちは一見、自分に中心があるように見える。自信を持って他人になろうとしているから。いわゆる自己中心的な人には「自分」がない。何故か?それは自分に中心がないからです。

それをどう取り戻していくか?

まずメディアの洗脳技法を学ぶことで、メディアリテラシーを行うこと。
そして伝統的な身体運用法を見直すことで、自分自身の身体性から生命感覚に入っていくこと。

この二点です。

洗脳技法と身体技法を学ぶ機会を各地で増やしていきます。
学びたい人がいたら連絡ください。

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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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