この国の悪しき文化は「出る杭は打たれる」というもの。
今は「出る杭」を見極め、育てるべきものはどんどん育てることが必要。
日本の企業が世界進出していった当初は、欧米から見てまさに「出る杭」だったのではないか。
出る杭は「打つ」ではなく「引っ張る」ことが必要。
その杭が大したものでなければ、引っ張ればすぐ抜ける。
引っ張っても引っ張っても抜けない「杭」は何かしらの力を持っている。
今は「出る杭」が絶対的に必要な時代なのだから、
その真贋を確かめるためにも「打つ」のではなく「引っ張って」みて欲しい。
歌舞伎、能、茶道といった伝統文化も出現当初は「出る杭」の見本みたいなものだったはず。
秀吉が千利休という「出る杭」を抜いたつもりになっても
茶の湯の生み出す感覚は多くの人に共有され文化に成っていきた。
利休の杭は地下深く根付いていたとうこと。
本物は打っても抜いても無駄。
歴史が証明している。
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「信じる」ことと「疑う」ことは結局「思い込む」ということ。
働く方向が違うだけ。
信じる心と疑う力の両立が鍵。
物事のいい面を見出す姿勢が信じる心。
物事の問題点に気づくのが疑う力。
物事を前に進めるためには心と力が元々一つということを思い出さなければならない。
「最悪のシナリオ」を宇宙消滅ぐらいに設定しておけば、大抵のことはGood Newsになる。
ピンチの分析は必要だけど、その解決にワクワクしてはいけないという決まりはない。
ワクワクした方が力がつく。
太鼓橋って知ってますか?あの半円形の橋のことです。
何故、あんな形をしているか?
上がる時には腰が締まり降りる時には肚が満ちるようになっているんです。
お参りする時の作法を身体に自然発生させる装置なんですね。
そういうものって以外とあるのです。
少し工夫するだけで、身体ってちゃんとしてくるんですよ。
調子が行きつ戻りつすること自体は恐れることはありません。
むしろ停滞を警戒すべきです。
悲しいのもOK。
寂しいのもOK。
つらいのもOK。
死にたいのもOK。
でもおなかが減るのもOK。
あなたが生きていれば僕は嬉しいです。
出来れば全身に感覚が行き渡るようになってくれたら、なお嬉しいです。
太鼓橋みたいに「肚腰」をしゃんとしてくれるようなものを見つけてみませんか?
日本人の強みは「型」文化を保有していること。
「型」の役割は感覚を発生させ複製させること。
まさに遺伝子的役割。
それはウイルスとも働きが似ている。
中国の文革はまさに「型」の廃棄。
「型」を失った国家がどうなるかは中国を見るとよく分かる。
上っ面の繁栄に我々は惑わされていはいけない。
ある人と電話で話した。
「昨日、友達と深い話をしていたんです。
とても本質的な話。
みんなエコな生活をしていて、
とてもArtisticなんです。
やっぱりArtが大事だよね。
ってことに行き着いたんです。
でも問題があって。
みんな貧乏なこと。
バイトもなかなかなくて」
僕は彼女の話を遮るように言った。
「本質的なことに触れていて収入がないのはおかしい。
みんな本質的なものが欲しいはずだから。
もしそれで収入がないのなら、あなた方が本質について誤解しているか、
世間が間違っているか、またはその両方だ。
エコな生活を節約倹約の生活ととらえると自分の首を絞めるよ。
むしろ消費した方がいい。
いいものにお金を使うんだよ。
自分を豊かな感覚にするようなものにお金を使うんだよ。
そうすればみんなのセンスが上がるし、無駄なものが市場に出回らなくなる。
お金が回るようになると必要なところにお金が行くようになる。
あほな不動産凍死とかじゃなくて、あっ、不動産投資だった(笑)にお金を回したりするんじゃなくてね。
すると彼女がこう言った。
「でも豊かな感覚ってお金で買えないでしょう」
それに対して僕。
「お金で買えないものは大事にしまっておけばいいよ。
交換出来るいいものはどんどん外に出さなきゃ」
交換出来る豊かな感覚を生み出すこと。
それを消費する習慣を社会が取り戻すこと。
これが今最も大事なことなんじゃないかと
彼女と話ながら思った。
天職という言葉は「自分に向いている仕事」を指すのだと思うのだけど、「自分は何に向いているのか?」という設問に引っかかってしまうと時間を無駄にしてしまいます。
僕は天職とは「今やっていること」と考えるようにしています。
今やっていることに全力発揮すると能力が上がります。能力が上がれば道が開けます。そのループにはいると諸々うまく行くようになります。
ギターを弾いていたらそれが天職。
プロデュースしていたらそれが天職。
炭をいこしていたらそれが天職。
リンゴをむいていたらそれが天職。
等々
天という言葉を信じるなら、当然そうなりますわな。
「伝えたい」ことが「伝わる」とは限らない。「伝える」技術を学ぶ際は「伝わるもの」は何かということをケースごとに掘り下げる必要があります。
常に「事実」から考える。物事の不自然さの中に事実は潜んでいたりする。「ここまでは納得出来るんだけど、どうしてここはこうなんだろう?」というところを掘り下げていく。「推測」はあくまで事実に近づくためのツール。その影響力は結構大きいので取り扱いには十分注意しなければならない。
もっともらしい推測が流布していくと「ムード」が形成されていく。この「ムード」が事実を隠蔽するものなら大問題。「ムード」を読み解く技術はリテラシーの基本だと思います。
僕は北京電影学院の客員教授にされてから映画制作の世界に引っ張り込まれるはめになってしまいました。「門前の小僧習わぬ経を読む」スタイルで映画の制作過程を学びながらいくつか気づいたことがあります。
それは映画づくりはまさに「ムード」作りなのだということです。完全なフィクションに観客を巻き込んでいく演出。映画と観客を同化させていく「ムード」づくりこそ映画の本質なのだと思います。「ムード」を共有する人たちが増えればその映画の収益性が高まります。
映画は虚構なのでみんなが納得ずくで「ムード」を共有することで娯楽性が高まります。しかし現実はそうはいきません。ムードで人は貶められることがあるからです。人を貶めることで娯楽性を高める手法は僕は好きではありません。
「報道の基本は裏を取ること」つまり事実に基づいて情報を発信することだと、ある新聞記者の人が言っていました。これをおろそかにしていると、例え大メディアでも信用されなくなってしまうでしょうね。
ムードが出来ればムードで売れる。売れるムードがあればそれに乗る。そのこと自体は悪いこととは思わない。ただし人を貶めるムードはだめ。元気になるようなムードが好きです。
ムードを上手にプロデュース出来るようになれば、映像プロデューサーとしては一人前です。
「伝えたい」ことを押し付けるのはいいやり方ではありません。
押し付けに対する人のセンサーは高度です。
「伝わる」ことに着目すべきなのです。
それはEmotional Connectionを生み出しImaginetionを賦活します。
「伝えるの」ではなくて「伝わる」ようにすることが大事なのです。
それは例えれば「水道」を引くようなことなのかも知れません。
80×365=29200
人生を仮に80年としたら何日間生きることにになるのか?
29200日という計算です。
仮に一日を一本のロウソクに例えると、
45歳の僕のロウソクは半分以上燃え尽きたことになる。
しかし面白いのは一本一本のロウソクは決して同じ大きさや形をしていないということです。過去の燃え尽きたロウソクもいろいろある。
燃え尽きてもどういうロウソクだったかは宇宙に刻まれている。
だから一つ一つのローソクがどう燃えたのかということはちゃんと記憶の底にしまわれるのです。
太いのやら大きいのやらどこかで誰かのロウソクにつながっているのやらいろいろです。一本のローソクが燃え尽きた瞬間、次のローソクに灯がともる。ロウソクは燃え尽きても火は継承されるようです。
素晴らしい仕組みですね。
今日という日のロウソクは燃え尽きてみないとどんなロウソクだったかわかりません。
一本一本のローソクを大事にしたいです。
私は落ち込むことはありません。
落ち込むという感覚がある時期を境にうまく掴めなくなってしまったのです。
私も人間ですから、悩むこともあれば不安を感じることもありますが、
それを引きずるということが無いのです。
たまには落ち込んでみて、誰かに優しい言葉の一つもかけてもらいたいという、さもしい欲望が芽生えないでも無いのですが、落ち込めない身としてはそれも儚い夢なのです。
何故落ち込まないのか?
私の身体がそれを許さないからです。
いつからそうなったのか?
2001年の晩秋からです。
2001年10月12日に当時住んでいた家が火事で燃えました。
真っ昼間。
外出中の火事。
原因不明。
10日間程は知り合いの家にお世話になりました。
そのあと、僕たちのような「被災者」のために市が確保していた市営住宅に移り、そこに半年間住んでいました。
その市営住宅に住み始めてひと月程経った頃、
朝、突然死にたくなりました。
不安とか心配とかというのではなく、
文字通り「死にたい」という激しい衝動に襲われたのです。
いても立ってもいられなくなり、僕は車で出かけました。
「死に場所、死に場所」と心の中で繰り返していました。
ぐるぐる回って、湘南平から平塚方面に一号線を使って出ようとした辺で、強烈な便意を伴う腹痛に見舞われました。
それはそれまで生きて来た中で経験したことの無いほどの激痛でした。
反射的に身体が折れ曲がります。
危なくて仕方がありません。
運悪く渋滞でトイレを探すことが出来ません。
運転することも出来なくなって来ました。
一刻の猶予もないという状態です。
その時、激痛のピークに抗うように僕はこらえました。
ダンプカーに下敷きになった我が子を助け出そうと車体を持ち上げるくらいの力を込めて肛門を締め上げたのです。
僕は堪えきりました。
すると不思議なことにあの激痛も、「死にたい」という強力な衝動も嘘のように消えてしまっていたのです。
その時自分の身体が大きく変化したのに気づきました。
身体というより身体感覚といった方がいいのかも知れません。
下腹部に鉛のようにずっしりとした充実感が生まれていたのです。
その「充実感」今でもどんどん育っています。
「肚が出来る」とはこういうことなのかと思ったりします。
あの時の「技」を僕は密かにGERIGAMANと名付けています(笑)
それ以来僕が悟ったことは、心を心で支えようとしても無理だということです。
それは水を飲むために水でコップを作ろうとするのに等しい行為です。
僕はあの時、まさに全身全霊、髪の毛一本一本の先までを肛門を締め上げるのに使いました。まさに身体の全体運用です。
それは死への衝動も吹き飛ばしたのです。
僕はそれからいろいろ体験する中、身体の全体運用を前提とした暮らし方、働き方を考えるべきなのだと考えるようになりました。
不安を不安がったり、悩むこと自体を悩んだりする必要はありません。
問うべきことは「自分は今全力発揮しているか」ということだけです。
僕は最近、働き方について考えています。
今の働き方を根本的に変えて行けないかな?
そんな仕事を生み出せないかな?
生理が遅れないような働き方。
身体はきつくても夜寝れば朝には回復するように身体を育てられる働き方。
心を支えるものは身体です。
身体の使い方に注目するだけでいろいろ動いてくると思うのです。
昨今、検察と記者クラブの癒着や特捜部の暴走といった話題が巷間を騒がしております。
要は「これはこれ、それはそれ」ということを一番のプライオリティーにせず、「雰囲気だけを作り上げて貶めようとする行為は例え相手が誰であれ、やってはいけないよね」という至極当然な原理を「一個人と比べてはるかに強い力を持っている国家権力やマスメディアが守らなければ、ご先祖様に申し訳が立たないでしょう」ということについてのお話と私は思っております。
さて話は変わって、面白い経験をしたので、ちょっとご報告と考察を述べさせていただきます。
先日、日本初のTシャツメーカーとして有名な久米繊維工業株式会社さんの工場に行ってきました。「日本でしか作り得ないTシャツ」ということを社長や社員の人が言っているので、それはどういうことなのかというのを取材しに行きました。
工場というと皆さんどんなイメージ持ちますか?
僕は大昔ピザの工場でバイトしたことがあったのですが、その体験は悲惨でした。機械と「同列」の役割で流れ作業の一部になるのは僕にとって非常に苦痛だったのを思い出します。時計ばっかりみてたもんな(笑)
今ならあの苦痛の原因が分かります。あれは人間の自然のリズムを無視して工程が組まれていたのです。つまり機械優先ということね。
で久米さんのところの工場はどうだったかというとこれが凄かった!!
縫製を主体とした千葉工場と プリントを主体とした埼玉工場に連れて行ってもらったのですが、
まず千葉工場。
迫力ある広い年齢層のお姉様方が数十名お仕事をされていました。
しかしその姿が美しい!!
裁断機やミシンといった機械が彼女達の道具と化していたのです。
文字どおり機械達は彼女達の手足のように働いておりました。
あと、工程が人のリズムに合うように作られていました。
これを実は驚異的です。何故かというとこれは人間工学からなぞは生まれ得るはずも無いことだからです。
つまり人の感覚が一番発揮されるように工程が組まれているのです。
これを経験から個人で組上げたのなら天才です。
実は先日、稽古場に行って僕の師匠である野口裕之先生に久米さんの工場のことを話しました。
先生は僕の話を聞いてすぐに理解をしてくださいました。
「榎田君、それはね、その人たちが一工程づつ動いているのではなくて、『一息』でいくつかの工程をまとめているからなんだよ」
「それが技と呼ばれるものの原型なんだよ」
「技には人間の自然に根ざした美しさがあるんだよ」
という風に目から鱗のお話をいただきました。
僕の印象では、機械が道具になっている。
つまり身体の延長として人の細やかな意思の発現として使われている。
機械に人が追われていない、むしろ人が機械を追っている。
ということがありました。
一息で動くということを具体的に言うと、
例えばお茶を飲むという動作は、
手を伸ばす。
茶碗を掴む。
それをこぼさないように口元まで持ってくる。
熱さを確かめながら茶を啜る。
飲み込む。
茶碗を戻す。
息をつく。
といういくつかの「工程」に分けられると思います。
しかしこの一連の動きを「一息」以上でこなすと、美しさが現れません。
行儀が悪い、ということになってしまいます。
この「一息の美」の感覚を日本人は大事に育てて来たのです。
「粋」という言葉もそこに通じるのだと思います。
「そんなことぐらい一息でやれねえようじゃ駄目」
という感覚は今もどこかに根付いているはずです。
僕はその工場に行ってみて、まさにこれは「日本でしかつくりえないTシャツ」だと実感いたしました。
そしてプリント担当の埼玉の工場に行ったさらなる驚きが待ってました。
あれは工場ではありません。
工房です。
もちろん機械はあるし、ある種の流れ作業ではあるのですが、シルクスクリーンで一枚一枚手で刷ってるんですよ!!!
同じ位置に同じ色合いで刷ることの大変さ想像つくでしょう!!
「機械で刷らないんですか?」と工場長に聞いてみると、
「機械でもやれないことは無いんだけど速乾性のインク(つまり油性)を使わなくちゃいけなくなって、後でシンナーとかも必要になって、環境に負荷がかかるし、何より肌に直接触れるものだから、水性のものでやってるんですよ」というお返事。
私は感動しました。
本当に感動しました。
これは日本でしか作り得ないTシャツだわ。。本当に。。
墨田に本拠を置く久米繊維工業の心意気と業態はまさに「江戸の粋」というものにふさわしいものでした。
忘れていけないのは現場の人の言葉。
「楽しいですよ」
「もっともっと上達したい」
一息の中に身をまとめる仕事。
こういう仕事を生み出せば、そしてそれが回っていけば、これに勝る幸せないのかも。
感覚発動の方が人を幸せな気分にするというお話でした。
誰かを血祭りにあげて、視聴率や販売部数のアップを図るというビジネスモデルを変えない限り、マスメディアに未来はない。「何千人か死なないと記事に出来ない」という構造ではメディアの意味が無い。
大きな企業に勤めている女の子たち。
忙しすぎて彼氏も出来ない。
不倫も出来ない。
恋に落ちる気分が萎えてる。
生理もいつも遅れがち。
何となく気分が優れない毎日。
「会社やめちゃおうかな?」
といつも思っている。
仕事に夢中になれない。
だけどそれは自分が甘いせいだと思い込もうとしている。
誰かに相談してみる。
「せっかくいい会社に入ったのに何言ってるの?」
「しばらく我慢してみたら」
「このご時世に、そういい仕事なんてあるわけない」
私は思うのです。
誰が決めたんだそんなこと。
要は本人が幸福感を持って日々生きていけるかということに尽きると。
仕事は無数にあると思う。
もしやりたいことが無ければ自分で仕事を作ればいい。
日本だけでもいろんな場所があって、美しいところがいっぱいあるよ。
あなたが夢中になれるようなものがきっとあると思う。
そのためには一にも二にも感性を磨くこと。
それは日々の身体の使い方を丁寧にしてみることで身に付きます。
これは体力をつけるということでも意味があります。
自分を大事に扱って欲しい。
自分を一番大事に扱えるのは自分だけです。
もし自分と同じくらい、もしくはそれ以上に大事に扱える人がいたら、それはあなたにとって大切な人になるでしょう。
そして現実的な力を養うこと。
例えば、ある地方で起業家を生み出すビジネスを起こしたいと思ったら、そのことを周辺情報も含めて広く学ぶ必要があります。
いろいろな人、出来れば信頼出来る大人たちとのネットワークを持つこと。
彼らは様々な面でアドバイスや助力を惜しみません。
そして、そのネットワークを自分のためだけに使わずに、友達とか他の誰かと共有させてみる。自分自身が世代や地域や業種といったものを超えたコニュニケーションを生み出すメディアとなるくらいの気持ちでやってみる。
するとアーラ不思議、資産がどんどん殖えて来ちゃうのですね。
自分が結構必要とされる場面があることにびっくりしたりとかね。
なんと言ってもつながりでございますよ。
人とつながりにくいと感じてる人は家にいらっしゃい。
わたしは人というより「ケダモノ」と思われていますからね(笑)
今までのマスメディアは私達の生活を豊かにするための情報を流してこなかった。(もちろん割合は少ないけどもそうでないものもあります)
電車の中にある中刷り広告から何か有益な情報を得られますか?
最近の「血祭り情報」についてのお知らせがあるだけです。
でもどうですか?
そろそろ血祭りにも飽きたでしょう?
違いますか?
「売る」ために装飾された情報ではなく、
もっと自分にとって必要な情報が欲しいと思いませんか?
血祭りに飽きることが血祭りの唯一の効用です。
情報は自分を豊かにするために使いましょう。
「豊か」というのはこの場合、「豊かな感覚」のことをいいます。
豊かな感覚を持って生きることが幸せだと僕は信じるからです。
twitterから転送
ケニアでの緑化プロジェクト
Rainmaker Project 実践地の一つであるキブエジは昨年からの干ばつで大変な目に遭っている。食料不足で餓死者も出かねない状況です。
現地の学校の校長先生や孤児院の院長から連絡あり、なんとか日本で寄付を募ってもらえいないだろうかと頼まれています。
Save Kibwezi Projectキブエジの惨状をなんとか多くの人に伝えたいと思い、ある知り合いの新聞社の人に(本部長クラス)お願いに行きました。すると返って来た答えに愕然。「何千人とか餓死者が出たら記事になるんですけどね」
そうなったら遅いので頼みに行ったのだけど。。あれから3ヶ月、キブエジに雨が降って、蒔いた粘土団子からやっと芽生えてき始めたようです。でも食料不足は依然深刻で大変な状況が続いています。
ハイチの地震も大変なことになっているけれど、放っておけば、キブエジでも相当数の人が飢えて死んでしまうかもしれない。もしかしたら大メディアで報道されないだけで、もっとたくさんの地域が大変なことになっているのかも知れない。何千人も餓死者が出てからニュースになっても遅い。
「何千人とか餓死者が出たら記事になるんですけどね」これは酷い、酷すぎる。何のための大メディアなんだろう? 大メディアには絶望しました。 twitterをはじめ、ネットを利用してどれだけ伝わるか分かりませんが、やれるだけやってみたいと思います。
Rainmaker Projectのキブウェジでのパートナー、Sikizana Trust Centreは、42人の孤児の家であり、6クラスで構成されるムイタシャーノ小学校と連携しています。この子供達が今、危機的状況に陥っています。
キヴエジでは昨年ほとんど雨が降らず、大凶作に見舞われてしまいました。昨年末に多少雨が降り、蒔いた粘土団子から出た植物が育ち始めたという嬉しいニュースもありますが、依然深刻な食料不足は解消されないままの状況です。
こう言った深刻な状況を日本の大メディアは報道してくれません。「何千人とか餓死者が出たら記事になる」と言われてしまいました。一刻も早い食料支援が必要です。力を貸してください。よろしくお願いいたします。
Rainmaker Project
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