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ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

やれば?

やろうとしています。
ええ、やろうとしてるんです。
本当にやろうとはしているんです。

「やろうとしている」
とよく言う人は必ず次に言い訳が出る。

やろうとしているんですけど田舎なもんで。
やろうとしているんですけど都会なもんで。
やろうとしているんですけど忙しくて。
やろうとしているんですけどお金がなくて。
やろとはしているんですけど組織のなかではなかなか動きづらくて。
やろとはしているんですけど行政がなかなか動かなくて。
やろとはしているんですけどストレスがひどくて。
やろとはしているんですけどdadadadada................................


やろうとするからいけない。
やればいい。
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名前雑考

子供に、「お父さん、なんで曲を作ったら名前をつけるの?」
と尋ねられ、真剣に考えあぐねた挙句、
「著作権を主張するために便利だから」
という答えしか思いつかなかった。

名前は「これ」と「それ」を区別する。

子供は、例えば絵を描くと「これは何の絵か」ということは説明するけれど、
その絵に名前を付けたりしない。

大人に「この絵はなんて名前?」と訊かれても
「え、、名前なんてないよ」というのが子供の正直なところだろう。


先日、僕の仲間の狂った官僚が主催したパーティに参加するため久しぶりに渋谷に行った。

たくさんの「虚ろ」達が「虚ろな街」に集っているという印象を強く持った。

「それっぽいもの」は着ているけれど「それ」は着ていない。
「それっぽいもの」は食べているけれど「それ」は食べていない。
「それっぽく」生きているけれど「それ」を生きていない。
「それっぽいもの」は受け入れるけれど「それ」は受け入れない。

「虚ろ」を「それっぽいもの」で補完しようとしている。
これは別に今に限ったこととではないけれど。

「虚ろ」と言えばこの世はすべからくそうなんだから、
「虚ろ」を「虚ろ」で埋めようとしても無理。

要は「運動」してればいいわけですよ。

「虚ろ」が運動しているのがこの宇宙なんだから、
その運動感に同調することで「虚ろ」は生き始める。

「虚ろ」を運動させるために発見されたのが「型」というもの。 
スタイルでもフォームでもフォーマットでもないもの。

「型」 

例えば、ただ能面を着けて歩き回っても「能」にはならない。
"能" という「型」にはいらなければ"能"にはならない。

「型」は異質なモノを同調させ意味ある姿にしていく。

人は人を「型」として捉える。
それに名前をつけることで「型」を強化したり希薄化したりする。

名前をつけると「中心」が生まれる。
しかしその名前を自前でつけれる人は少ない。
そこで「名前」を"買い"にいくことになるのだが、
「名前」は消費するものではなく自らが自らのために生産するものなので、
それを経済活動に高度に組み入れた段階で人を"顔無し"にしてしまった。

これはチャプリンが100年前に警告していたこと。

「それっぽいもの」はいくら消費しても満足しないし
よほどのアホでない限り無情感にいずれは落ちいる。

「それ」にアクセスせよ!ということになる。

しかし「それ」は中身なので見せては行けない。
「型」で運動感を伝えるのだ。

それが粋と言うもの。

クルーテルかな?

知り合いが元気の無い顔で、
「霊に取り憑かれたらしいので霊媒師に祓ってもらう」
と言うので「もったいない、俺にくれ」と言ったら吃驚された。

「助けてもらいたがって来ているのに祓ったりしたらかわいそうだ。
俺なら仕事を手伝ってもらう。
自分の恨みを忘れるぐらい一生懸命働いてもらう。
そしたらきっと成仏する。
悪霊でも地縛霊でも背後霊でもなんでもいい。
みんな集めてケニアに行って森を創るんだ!」

と本気で熱く語ったら逃げていってしまった。
生きてる人間の方が怖くなったらしい(笑)

論より行動

無限の可能性があっても選択しなければ何の可能性も無いのに等しい。

思考も行動も突き詰めれば「選択」の連続ということになる。
選択には根拠がある場合と根拠の無い場合がある。
前者は「妥協」と呼ばれ後者は「運命」と呼ばれる。
前者を生きるものを賢者と呼び、
後者を生きるものを勇者と呼ぶ。
両者に共通する資質は行動でその生き様を示すこと。

何も選択しない者の呼び名はここで語る価値がない。


狩猟民族は不安が頼り

以前、あるシンポジウムでパネラーをやった時の話。

ある大ビール会社の重役もパネラーで、僕の隣りに座っていた。

確かアート系のシンポだと思ったが内容はもう忘れた。

ただ覚えているシーンがある。

その大ビール会社の重役が「私は狩猟民族ですから」と発言したのだが、
僕は反射的に「えっ、給料取りの狩猟民族っているんですか?」
と聞き返してしまったのだ。

一瞬場が凍り付いたのだが、
冗談と思ったのか会場はすぐに笑いに包まれた。


僕も喉から手が出るほど給料が欲しい。
でもどこにも誰にも雇われていないので給料など振り込まれる訳が無い。

組織の後ろ盾など無いので、
自分で仕事を編み出してチャンスを見出し食いつなぐしか無い。
その日暮らしという意味では狩猟民族的に生きている。


なので高級を食みボーナスもちゃんともらえる人が自分のことを
「狩猟民族」と呼ぶことなど笑止としか言いようが無かったのだ。


「将来が不安じゃないですか?」
と聞かれることがあるけれど、
不安が自分の能力を磨いてくれることを知っているので、
「不安が頼りなんですよ」と正直に答えると
ほとんどの人は複雑な表情をする。

不安こそ神から授かった最高の贈り物。

無闇矢鱈に不安を敵視しないで、
一度きちんとつきあってみればいい。

僕は身体の不調に悩んでいた頃、
毎日が不安だった。

どうやって食っていこう?
ちゃんと身体が動くようになるのだろうか?

そんなことばかりが心に重くのしかかっていた。

ところがある時、不安の正体が明らかになった。

それは希望が大きければ大きい程、
その実現に不安を覚えるのが自然現象なのだということ。

逆に言うと不安があるということは希望を持っているということになる。

だけど人は、忙し過ぎると希望が漠然としてきてしまう。
すると不安感だけが強調されるようになってくる。

でも知って欲しい。不安は自立して存在出来ないということを。
希望とペアでそれは初めて存在する。その逆もまた真。

むしろ不安をきちんとチェックしていく訓練をすることで能力が上がっていく。

そのことを悟ってから、随分図々しく「狩猟民族」して来てしまった。
もちろん、いつ野垂死ぬかは分からない。
それはそれで仕方が無い。
でもまだまだしぶとく生きるつもりです(笑)






自信は自身

「自信」は「自身」なので、生きてる限り自信を失うことなど有り得無い。


人より優れているとか、何かが出来るとか
「優越性」を自信の根拠にすることは愚かだ。

根拠が消えたら自信も消える。
ということは自信が消えたら自身も消えるはず。

でも自信が消えた瞬間に自身が消えた人を僕は寡聞にして知らない。

自信は人と比べることにより発生するものではない。
自信とは呼吸と鼓動の源を深く感じることだ。

「これは私の生命」これが自信の正体。

自信が揺らいだと感じたら、自分に言ってみたらいい。

「これは私の生命」

根拠の無いもの程、強い存在感を放つことを実感出来るはずだ。



心の旅

心は揺れる。
それでいいのです。
それが心の役目だからね。

愛は与えることしかコントロール出来ない。
愛を誰かに求める気持ちは分かるけど、
それは自分でコントロールできるものではない。

40過ぎてよかったことは、
愛を与える喜びを深く知ったこと。
そして誰かがくれる愛を有り難く受け止めることが出来るようになった。

有り難い

それはあり得ないことが起きることに感謝する気持ち。

女子達。
結婚を恐れる必要は無いよ。
幸福を求めるあまり不幸を恐れるのは愚かなこと。
不幸は状況だから永遠には続かない。
泣きはらし、憔悴しきった後に生命は必ず立ち上がってくる。
よくも悪くもそれが生命。

自然発生するものにしか力は無い。

「一億円あげるから僕と恋に落ちてくれ」
と言ったって無理でしょう。
ふりは出来るかもしれないけど。

偶然と必然の境が揺らぐ時、世界はその真の姿を現す。

偶然を言祝げば、それが生きる力の源となる。

心の旅はそこそこにして、
偶然を楽しんで欲しい。







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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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