「日本の危機」といった時に抜け落ちがちなのが「身体」です。
敗戦後急速に進んだ生活の西洋化がもたらした
身体運用の基準となる生活様式の激変。
「和」の身体というべき感覚体系が緩やかに崩壊した結果、
我々は生きる基準を見失ったのだと思います。
肚が据わる
腰が極まる
腑に落ちる
背筋が伸びる。
知力も気力もその源は身体運用原理です。
「知る」と「まとめる」という人間の力も身体感覚に依拠しているのです。
私は交通事故の後遺症で半身不随になりかけた時、
日本の伝統的身体運用法を学び稽古する事で、
その後遺症を克服しました。
その時に日本文化に内在するその高度な身体運用法に触れ、
それが生み出す多種多様多層で豊饒な「生命を見つめる眼差し」の持つ
世界史的価値を知りました。
身体の持つ感覚を繊細に運用して来た結果、
人類史に誇れる日本文明を築いて来たのです。
その時に学んだのが「型」の存在です。
「型」とは
感覚を発生し、
感覚を複製し、
異質なモノを同調させて意味ある姿にしていく働きのこと。
日本の停滞は自由主義のもたらした云々という議論も理解出来ますが、
それだけで説明仕切れるとは思えませんし解決も出来無いと思います。
私は「日本の身体」を再考する事が日本の進退を決めると考えています。
昔、北京の映画人達に、『文革の本質というのは「型」の廃棄だろう。毛沢東が耄碌して伝統文化の持つ「型」の持つ強ウイルス性が近代化を阻むと考えた結果だろう?』と言ったことがあるのです。
技とは型が効力を発揮している状況です。
「型」なき繁栄程不安定かつ危険な者は無いし、
それは見せかけだし、続くはずも無いのですね。
型というものを私達は真剣に見直さなければならない時期に来ているのです。