以前、ケニアで「ケニアで結婚して家庭を作れ!」と言われたので「いや、もう僕は結婚している」と答えたら「大丈夫ケニアでは奥さん何人いても良い!」と言われた。
僕の理屈の根拠は日本の法律なのだが、ケニアではその理屈の根拠が異なるので理屈が通じない。まして結婚相手は一人で十分という僕の感覚などいくら「説明」しても彼らには通じなかった。共有された感覚=文化が異なるということはこういうことなのだとその時初めて知った。
説明出来ることなどその根拠が異なれば何の力も持たない。「我が国の法律ではこうなっている」と言っても相手が「いや、私の国ではこうだ」と言えばそれで デッドエンド。そこに同調は無い。同調は感覚の世界でこそ起こりえる。だから理屈よりも感覚を共有することを模索した方が良い。
理屈は根拠に依存するのでその根拠が消えれば理屈も消える。
つまり「説明出来るもの」というのはその程度のものだということだ。
それにくれべて根拠無きもののその力強さよ。
「だってそうだから」
と人がなったらそれは感覚が根本的に変容するまで変わらない。
これが人間の構造。
「結婚相手は一人で十分」という説明は根拠が共有されていない限り通用しない。
ましてこちらの「だってそうだから」というのは相手の「だってそうだから」を打ち崩すことは出来ない。「矛盾」の故事を思い出せばいい。
だから感覚の共有を図ることが重要になるのだ。
「だってそうだから」を共有出来ればエンゲージメントが生まれたということになる。
では「だってそうだから」をどう共有していくか?
情報を運用するのだ。
以下の図式を見て欲しい。
情報発信=説明→根拠を共有している者同士にしか通用しない。利害関係に弱い。
情報運用=同調→感覚の共有を押し進めていく。利害関係を越える。
情報発信したって局面を打開出来ないのはこのせいだ。
結局、根拠の共有されていない相手に説明しても無駄ということだ。
同調を生み出す情報を産みだすこと。
そして同調が起きるような伝え方を産み出すことが肝要。
その情報は自分という存在を含めたアナログから、
クラウドを利用したデジタルコンテンツまで多様にある。