先日、大学生と話していたら「10年後、僕はどうなっているのかと思うと不安になります」と言うので、「悲観するな」と言った。
すると「でも楽観は出来ないと思うんですよ」と言うので、
「先のことなど誰にも分からない。そんなもの悲観しても楽観していても意味がない。静観しろ」と言ったら目を白黒させていた。
楽観でも悲観でもなく、静観するという態度だけが人生を前に進める。
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すべてはコミュニケーションの進化から始まる。
それは身体感覚から身体感覚へと伝わりながら、感覚の共有を生み出していく。
映像言語はその役割を担うひとつツール。
すべては身体感覚。
人生は身体の感覚体験。
ここに深く気付くことが出来れば、
すべては動き出す。
未来は我々に進化を求めている。
我々が自らの固着した感覚を変容させ、
想定外の世界へ踏み込んでいくことを求めている。
「地に足の着いた」という言葉の生易しさを思うが良い。
足をつけるべき「地」であるこの星は、
その誕生以来、宇宙という訳の分からんところをずっと漂流し続けている。
漂流こそが我々の本質なのだ。
育てたいのは、未知なるものとの出会いの連続に一瞬の光を見出す力。
その光をみんなで分かち合う力。
その力を育てるものは新しい言語。
新しい文学。
新しい物語。
実力ではなく虚力。
日本文化の神髄は「一」。
「一」でまとまり「一」で支える。
動きは「一息」のもとに行う。
古来、日本人は「一」で支え、まとまった姿を佳しとし、それを「一息」で崩すことで生まれる勢いに所作の美学を目指した。
「一息」といってもその「息」は生物学的な呼吸をさす訳ではない。
昔、明治生まれの薩摩琵琶の国宝的達人の方に手ほどきを受けていたことがある。
西洋音楽に耳が慣れた私には、単調で単純に聴こえる薩摩琵琶の歌を全く追うことが出来ない。
見かねた先生が「榎田さん、呼吸リズムに乗るんですよ」と教えてくれたのだが、その「呼吸リズム」というのが分からない。
ずいぶん後にそれが自分の呼吸を指すのではなく、楽曲の呼吸を指すのだと気付いた。
その「楽曲の呼吸」を感じることが出来たのは、先生の演奏を目の前で何度も何度も聴くことで自分の身体の感受性を変えていったからだ。
それから呼吸と息というものに対する感覚が飛躍的に広がった。
「一息」と言っても色々ある。
私の一息もあれば宇宙の一息もある。
しかも重なり合い同調している。
この素晴らしい文化をきちんと伝えていきたい。
言語の主要なな働きの一つに、
今まで使ったことのない脳の領域を刺激するということがある。
あたらしい言語を手に入れれば、それだけ新しい脳の領域を動かすことになる。
言語を常に新しくしていく作業が大切なのだが、
老いるとそれが難しくなるようだ。
「老いる」とは加齢のことだけを言うのではない。
脳の使用領域の拡張をやめてしまえば、10代でも老化は起こる。
「インテリ」と言われる人達もこの傾向が強いようだ。
脳というものは実際に使ってみなければ、
次の動きを予想することさえ出来ない。
新しいことを始める人を揶揄する人は、
想定内の動きしか読むことが出来ない。
しかし偶然、物事はあらぬ方向に動いていくものだし、
その流れを上手く掴んだ者が先に進んでいく。
身体感覚に変容をもたらすことが鍵になる。
そのためのヒントは日本の伝統的身体運用技法の中にちりばめられている。
古典的に感じられる「型」という概念が、実はいつも新しい感覚を発動させる肝になる。
僕は映像を「型」という感覚発動装置に埋め込むことで、
「映像言語」という新しい言語を手に入れることが出来ることを発見し、それを多くの人に伝える仕事をしている。
映像→型化→映像言語
面白いですね。
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