
コミュニケーションは「伝わる」と「伝える」という二つの働きで成り立つ。
今は、他者の「伝える力」=「相手に理解してもらう力」の虚弱さだけを批判して、自分の「伝わる力」 =「相手を理解する力」の貧弱さを棚上げしている傾向が強いような気がする。
「伝わる力」は思いやりを持たないと鍛えられない。
自分の感受性を開いていく作業だからね。
日本人はコミュニケーションがへた、とちょっと前はよく言われていたけど、これは逆に言うと「伝わる力」が高度だったので、「伝える力」が表に出なかったということかも知れないね。
そういう関係の中で育てられたコミュニケーション法は他のシステムの中では最初は誤解を生むかも知れない。
また、世代間でコミュニケーション障害が起こるのは当然の事でこれは何万年も前からあった事だと思う。
特に最近は、社会は縦割りに、そして学校は横割りに分裂させられているので、その傾向が目立つのかも知れない。
「伝わる力」の有り様が、「伝える力」の有り様を成り立たせている。
つまり他者からのメッセージを汲み取る姿勢と自分のメッセージを明確化する作業は深くリンクしているということだ。
人それぞれの「有り様」を認めていく能力は元々人に備わっていると思うのは僕だけだろうか?
コミュニケーションの可能性を探っていくといろいろな事が面白くなっていく。
「コミュニケーション・ブレークダウン」も何かを生み出すきっかけにすればいい。
コミュニケーションの可能性を広げる場作りは大変だけど楽しい。
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