ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

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名前雑考

子供に、「お父さん、なんで曲を作ったら名前をつけるの?」
と尋ねられ、真剣に考えあぐねた挙句、
「著作権を主張するために便利だから」
という答えしか思いつかなかった。

名前は「これ」と「それ」を区別する。

子供は、例えば絵を描くと「これは何の絵か」ということは説明するけれど、
その絵に名前を付けたりしない。

大人に「この絵はなんて名前?」と訊かれても
「え、、名前なんてないよ」というのが子供の正直なところだろう。


先日、僕の仲間の狂った官僚が主催したパーティに参加するため久しぶりに渋谷に行った。

たくさんの「虚ろ」達が「虚ろな街」に集っているという印象を強く持った。

「それっぽいもの」は着ているけれど「それ」は着ていない。
「それっぽいもの」は食べているけれど「それ」は食べていない。
「それっぽく」生きているけれど「それ」を生きていない。
「それっぽいもの」は受け入れるけれど「それ」は受け入れない。

「虚ろ」を「それっぽいもの」で補完しようとしている。
これは別に今に限ったこととではないけれど。

「虚ろ」と言えばこの世はすべからくそうなんだから、
「虚ろ」を「虚ろ」で埋めようとしても無理。

要は「運動」してればいいわけですよ。

「虚ろ」が運動しているのがこの宇宙なんだから、
その運動感に同調することで「虚ろ」は生き始める。

「虚ろ」を運動させるために発見されたのが「型」というもの。 
スタイルでもフォームでもフォーマットでもないもの。

「型」 

例えば、ただ能面を着けて歩き回っても「能」にはならない。
"能" という「型」にはいらなければ"能"にはならない。

「型」は異質なモノを同調させ意味ある姿にしていく。

人は人を「型」として捉える。
それに名前をつけることで「型」を強化したり希薄化したりする。

名前をつけると「中心」が生まれる。
しかしその名前を自前でつけれる人は少ない。
そこで「名前」を"買い"にいくことになるのだが、
「名前」は消費するものではなく自らが自らのために生産するものなので、
それを経済活動に高度に組み入れた段階で人を"顔無し"にしてしまった。

これはチャプリンが100年前に警告していたこと。

「それっぽいもの」はいくら消費しても満足しないし
よほどのアホでない限り無情感にいずれは落ちいる。

「それ」にアクセスせよ!ということになる。

しかし「それ」は中身なので見せては行けない。
「型」で運動感を伝えるのだ。

それが粋と言うもの。
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プロフィール

榎田竜路

Author:榎田竜路
Musician、Glocal Media Producer、真荷舟、Earth Voice Project代表社員、NPO横浜アートプロジェクト理事長、NPO映像情報士協会理事長、北京電影学院客員教授、Rainmaker Project代表、身体感覚技法追求。「野生と感性と知性を一つにして地球の未来に貢献します」

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