「私は客観的に物事が見れる」と言って辞任した首相がいたが、そもそも客観的とは何なのだろう?
大辞泉によれば、
1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。
2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。
ということらしい。
ここにプラトンやヘーゲルを持って来たら話がややこしくなるのでやめるけど、要は自分のことを「他人事」として観るということなのだろう。
科学というのはこの客観的な作業の積み重ねらしいのだが、僕にはどうにも違和感がある。
もちろん客観的事実というものはある。
いつ、どこで、誰が、何をした。というのがそうだ。
(最後の「何をした」というのは気を付けないといけないけど。。)
でも客観的事実の把握だけで政治は出来ない。
ここに主観の力が大きく必要になってくる。
つまり「客観的事実はこうだ。だから私はこれをする」というところだ。
かの人は「これをする」という状況ではなくなってしまったのが気の毒だとは思うけど。。
話がそれた。
何を言いたかったんだっけ?
あ、そうだ。
客観的になるということは、客観的事実の把握だけでは事足りないのでは?と今朝、起きてからふと思ったのだ。
今、僕は心臓が苦しい。
まぁ「主観的」に言わせてもらえば身体の調整中ということなのだが、「客観的」に言えば病院に行くべきなのだろう。いけばすぐ入院させられてしまうだろう。血圧が下がってるし、心臓の機能が低下してるからね。
でも僕は知っている。あと少ししてこれを抜ければ、さらに強力に元気になってしまうことを。これが自然の働きだということを。だって心臓病じゃないんだから。でも今、検査したら心臓病にさせられてしまう。これが「客観的」な見方の弱点であり限界だ。
客観的に「金融危機だから首になりました」では人生たまったものではないだろう。しかしこういった時にこそ役に立つのはその人の持つ「主観の力」ではないだろうか?
>1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。
これは人であるかぎり無理がある。魂になる以外、客観性が保てないということになってしまう。そういうつもりでというのなら分かる。
>2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。
これは難しいけど努力する価値はある。だって、自分の思い込みに縛られるのは愚かなことだから。(けっこうやってしまうけど)
量子物理学での「観察者」の問題ではないけど、結局、世界は空っぽの入れ物ではないので、自分と世界とを分けて考えること自体が究極的に無理なのだ。観察者の振る舞いが「対象」に影響を与えてしまうのだから。。
宇宙は言う「私は世界で世界は私だ」
でも生活レベルではこれでは不便になる。
夜、家に帰ったらまたっくの他人が家にいて「これは私の家です。何故なら私は世界で世界は私なのだから」とかいわれても迷惑ことになってしまう。
映画にしたら面白いかもしれないけど。。
結局、主観と客観を絶対的に分けることは不可能なのだから、「分けたつもり」でやるしかない。
僕はこう思う。
客観とは主観を広げていく作業。主観をどんどん多様化させていく作業なのではないかと。
また心臓が苦しくなって来た。
客観的にも主観的にも休んだ方がいいと思うので横になります。
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