
いくら頭で「前向き」に考えようとしても、
いくらいいイメージを心に描こうとしても、
うまくいかない時がある。
いやむしろうまくいかない時の方が多い。
それは何故か?
望みが強ければ強い程、
「望み通りにいかないかもしれない」
という不安、不信の心に苛まれた経験は
誰でもあると思う。
前向きに考えていてもいつの間にか、
それがうまくいかない要因ばかりが心に浮かぶ。
よいイメージを心に描いていたはずなのに、
いつの間にか最悪の状況を想像している。
そして「私はなんて心が弱いんだろう」と自己嫌悪と自己不信の無限循環に陥るパターンにはまっていく。
僕も長い間ここにはまっていた。
考え方や感じ方を「心」の問題と捉えること自体に無理がある。
心というのはいつも捉えどころがなく、無限に自由に、矛盾を生み出していく働きそのもので、意識で制御しきれるものではないし、まただからこそ大きな力を生み出す源ともなり得る。
僕は今必要以上に落ち込むことはなくなった。
また失敗しても自己嫌悪に陥ることもなくなった。
心も考え方もそれを支えているのは身体で、
追求すべきは身体感覚ということに行き当たったのだ。
自分を「心の有り様」の中に求めることをやめて、「身体の有り様」に求める。
それを教えてくれたのは他でもない日本の伝統的な暮らし方の中で育まれて来た身体の使い方だった。
伝統的な身体の使い方といったって別に特別なことではない。
一言で言うと「一点で動く」ということで、それを言い換えれば「中心で動く」ということになる。
これは我々の生活の中のどこをとっても息づいていた。
座り方、箸の持ち方、歩き方、筆の持ち方、話し方、帚のかけ方、重いものの持ち方、軽いものの持ち方、鍬の使い方、刀の振り方等々。
今はほとんど崩れてしまったその動きの中に、世界史的に非常に貴重な身体運用法の粋があった。
作用点を意識しない、反動を用いないというその動きは人生のあらゆる場面に有効で、その動きを可能足らしめる感覚の有り様は我々の文化に深い陰影を残している。
明治維新と敗戦の二度にわたる「文化革命」でその「感覚の有り様」はゆるやかな滅亡の危機に瀕している。
ではどうしたらその感覚を獲得し、駆使できるようになるのか?
答えはいたって簡単で「腹を作る」という一言に集約される。
僕は自分の下腹にソフトボール大の鉛のように重く力強い感覚をいつも感じることが出来る。いつからこうなったのかは忘れてしまったけど、この感覚はどんなに体調の悪い時でもなくならない。
このおかげで僕は「私はなんて心が弱いんだろう」という自己嫌悪と自己不信の無限循環に陥るパターンから無縁になった。
腹が出来るとどこにでも中心を持つことが出来る。
ただし腹の作り方は、正しく教えられる人に習うことを御勧めします。
