ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

GOJIDAN



先月、十勝に行って非常に上質なものを食し、帰ってから行った宮城でまた上質なお米を食したら僕の中で何かが動きました。

中国の連中と付き合うようになってから、
飲めない酒も飲めるようになり、
連日の接待攻めで高カロリーのものを死ぬ程食べさせられ、
気がついたら15キロくらい太ってしまっていた。

酒もやめて、身体も鍛えているのになかなか体重が落ちなかった。
それが突然、啓示のようなものが来た。

「5時以降に食べるのをやめてみよう」

それで始めたのが「GOJIDAN」。
つまり五時以降は食べ物を取らないという生活。

先月の16日から初めて三週間程で6キロぐらい無理なく体重がおちてしまった。

無理もない。
だからリバウンドも無い。

「付き合いが」とかいう言い訳で夜中に死ぬ程食べていた自分を今は不思議な気分で思いだしています。

今は胃が小さくなったのか、一度にたくさん食べれなくなって来た。
それに五時前なら死ぬ程食べてもいいんだと思うとストレスも無い。
たまには付き合いで五時以降、食べることもあるけど、それも楽しくおいしく食べれたら翌日かえって体重が落ちてたりする。

身体の秘密にまたひとつ触れたようです。

会う人ごとに「痩せたね〜」と言われるのが、
えも言われぬ快感になっています。

この調子で二、三ヶ月も経てば、元のターザンのような身体に戻るでしょう(笑)
そしたら本でも書いてみるかな。。

チャンとするということ



90歳をとうに超えた祖母から来たハガキを見ながら、
「チャンとする」ということに思いを新たにした。

僕は小さい頃、祖母に育てられた時期がある。
その頃、父は送電線工事の会社を立ち上げたばかりで、
母も50人ほどいた従業員の人たちの炊事洗濯等を全部一人でやらなければならなかった。

ちょうど高度経済成長の後半の時期にあたり電力はいくらあっても足りないという時代だった。

皆さん「なんでこんな山奥に」というところに鉄塔が立っているのを見たことがあるでしょう? そんな山奥に鉄塔立てるのだから宿舎には電器や水道などあるわけがない。母は毎日、宿舎の下を流れる川まで水を汲みにいったそうだ。一日の大半はそれに費やされた。

小さい頃の僕は今と違ってとてもやんちゃで、ちょっと目を離すとすぐにどこかに消えてしまって、僕のいないことに気付いた母をパニックに陥れていたらしい。何しろ熊や猪が棲息するほどの山奥なのだ。

ある日、僕は決定的なヤンチャをしてしまった。
近くの池に溺れて浮かんでいたところをたまたま通りかかった従業員に発見され、
一命を取り留めるという事件を起こしてしまったのだ。

母は重労働を続けながら、僕を「監視」し続けることの困難さを思い、
結局、自分の母親(僕にとっては祖母)に僕を委ねることにした。

そして僕は鹿児島の祖母のもとに送られることになった。
祖母は一人暮らしで(彼女の夫は戦死していた)自分で田舎に雑貨店を経営し、生計を立てていた。

鹿児島は昔は「薩摩の国」と呼ばれ、そこに住む侍達は、映画「ラストサムライ」に登場するサムライの原型になる程の益荒男ぶりを誇った。

祖母も「薩摩」の教育を彼女の母や祖母達から徹底的に叩き込まれた世代で、その教育がそのまま僕にも注ぎ込まれることになった。

当時の鹿児島は夢のようなところだった。
生き物はみんな大きく生き生きとしていた。
朝起きて戸を開けると祖母の育てている花々の匂いがさわやかな風とともに家の中に流れ込んでくる。空はどこまでも高く、桜島の火山灰を含んだ大地は南国の太陽に照りつけられて陽炎をくゆらせている。
今は廃線になってしまった宮之城線の線路わきの側溝はすぐ横の崖から湧き出した水に満たされ、そこには鮒や泥鰌、時には亀までが住んでいて、子供の僕にとって正に楽園だった。

おかげで両親から遠く離された寂しさを感じることもなく、
僕は毎日過ごすことが出来た。

しかし祖母の教育は厳しかった。
いつも「チャンとしなさい」と言われ続けた。
「チャンとしなければだめだ」としかられた。

おかげでいつの間にか「チャンとする」いうことが、
感覚的に身に付いた。

ではこの「チャンとする」とはどういうことか?
自分の子供を躾ける立場に立った今、
これを言葉で説明する必要が出てきた。

「チャンとする」とは要するに自分の背骨が全部感じられるような姿勢をとるということ。つまり自分の中にしっかりとした中心感覚を持つということだ。

「襟を正す」ということも同義だ。
試しに正座して襟を正してみればいい。
自分の背骨がよりはっきりと感じることが出来るはずだ。

自分の背骨がはっきり感じるようになればどうなるか。
美しく「動く」ことが出来るようなるのである。
美しく「動く」とは合理的に身体を動かすことに他ならない。
合理的に身体を使うことで全力で物事にあたることが出来る。
野に生きるケダモノ達のように。。

自分の中に中心をしっかり出すこと。
自分の軸を身の中にしっかりと感覚すること。
これがすなわち「チャンとする」ということなのだ。
これは人間の活動全般に通ずる基本なのだ。

このシンプルな感覚が人生に起こってくる様々な物事を乗り越えさせてくれる。
だからこそ祖母は僕に徹底的に「チャンとする」ことを叩き込んだのだと思う。

ともすればまとまりなく混沌としがちな自分のよりどころを
しっかり身のうちに持つことが「チャンと生きる」ことなのだと
祖母は僕に伝えてくれたのだと思う。

希望

「希望」と「気休め」の違いが分からない人がいる。
歴史を観ると自分の信念を貫き生命を燃やし尽くした人たちがいくらもいる。人はいつか死ぬ、ほとんどの人は100年と生きれない。

「この星に今まで何人の人が生まれては死んでいったのだろう。。
何組の親子や恋人達が死によって分たれたのだろう。。」
というようなことを富士山嶺を歩きながらながら思った。

この世に生まれて来た意味は自ら生み出すもの。
それが「希望を持つ」ということだと僕は考える。

僕が身体の不調に悩んでいた時、
僕の先生が「自分の身体の中に元気なところを見つけ出すことが出来れば良くなる」と言った。最初はそれこそ「気休め」にすぎないと思ったが、僕の先生は即座にその方法を僕に示し、僕は自分の中の元気を発見し、それからみるみる状況が変わって来た。

「希望」は感覚に根ざし、「気休め」は論理に根ざす。
感覚には根拠がない。
根拠がないから力となる。
恋愛を見ればすぐ分かる。
論理で恋に落ちる人を僕は知らない。

今、世界には悪いニュースばかりが蔓延っているように見える。
しかしそんな世界の中にも「元気」を見いだすことは出来るはず。
僕は僕なりに見いだしたその「元気」を頼りに生きている。

そうすると不思議なことが起きる。
「希望」を見いだし、それを目指すことが生きるということだと僕は自分の子供達に臆せず言うことが出来る。

ありがたい。

身体が変われば、意識が変わる

「身体が変われば、意識が変わる」というのが僕の経験上の実感です。

「身体が変わる」ということは言い換えれば「身体の使い方が変わる」ということになります。

人の判断の規範というのは実は身体感覚にあるということは意外に知られていません。ちょっと考えれば気がつくことですが、例えば仕事で初めて会った人と挨拶をかわす時、丁寧な挨拶には好感を持ちます。この「丁寧」という感覚はどういう感覚かというと、挨拶を「チャン」とされたという感覚です。

では「チャン」とするとはどういうことかというと身体を「全体運用」するということです。

身体を全体運用することにより、その人の能力が発揮されるのです。
だから子供に「チャンとするってどういうこと?」と訊かれたら、「身体をひとつにまとめて物事を行うということだよ」と教えてあげましょう。

出来れば、親が生活の中で「身体をひとつにまとめて物事を行う」ことを見せてあげると子供の共感と理解が得やすくなります。

そうすることで人は自分の能力を育て、発揮していくことが出来るのだということが分かれば、人生に於けるいろいろな問題を解決するよすがになるでしょう。

「なんだか最近うまくいかない」と思ったら、身体の使い方を丁寧にするようにしてみることを御勧めします。理屈では解決しなかったことが、変化していくかもしれません。

事実と真実



情報を発信したり受信したりする時に注意すべきことは、
「事実のみを捉える」ということに尽きる。

その「事実」から自分の都合と感情を交えて抽出されたものが「真実」で、
これは人によって異なった情報として創られる。

「真実」はエッセイとか映画とかに描くべきことで、
報道として発信すべきことではない。
というのが僕の立場だ。

僕はアジアの映像教育機関の連携を進めている中でこのことを学んだ。
学生たちは徹底的にこの「事実と真実」の違いとその伝え方を学ぶ。

どこで?
いつ?
何が起こったのか、起こっているのか?

それは僕にとってある種の衝撃だった。
「お前がどう感じるかより事実をそのまま伝えること」がいかに重要で、それを誤ったばかりにどれだけ悲惨な事態を招く可能性があるのかということを歴史から徹底的に学ぶ。映像技術というものは世界に対し大きな影響を与えるものなのだから当然だ。

「事実」を共有した上で「私はこう考える」「私はこう思う」ということを明らかにしていかなければ結局力を結集しきれない。
事実は真実よりもはるかに共有しやすいものなのだ。
だから事実を共有出来ればそれだけで力となるのだ。

今のようにネットが発達した環境では、特に映像情報の扱い方は慎重にすべきである。

立場や環境によって「真実」は異なる。
この原理をうまく利用してコントロールしようとする人たちがいることを忘れてはならない。彼らは私たちの「心」の性質を利用して力を分散させることに巧みだ。

その映像に映っているものが何も事情を知らない人たちにどういう影響を与えるかということにまで思いを馳せる必要がある。

興味がある人は「真実」に集うことができる。
だけど本当に力を結集したければ興味のない人たちと「事実」を共有することから始めるしかない。

何かをなそうとする人は、自ら事実と真実を混乱させることを徹底的に排除しなければならない。

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榎田竜路

Author:榎田竜路
気がついたらこの星の上にいました。
音楽作ったり演奏したり、映画を作ったり、森をつくったりといろいろやっております。

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