出来ることをやるだけでなく、必要とされていることが出来るようになるよう努力することが求められている。
出来ることから始めるのは当たり前。
出来ることをどんどん広げて高めていかなければ成長も進化もない。
一足飛びに成長も進化も起こらない。
焦らず、しかし弛まず、行ける時は遠慮せずガンガン行く。
そして休む時は冬眠する熊のように眠る。
ソウイウモノニワタシハナリタイ。
大切に思う人がいてもそれを態度で示さなければその「気持ち」は決して届く事はない。
昔、アランの幸福論を読んでいたら面白い一節に出会った。
それは、おおよそ次のような内容だったと思う。
「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」
私の経験上、態度に表す事で物事は現実化していく。
思っているだけじゃダメ。
感じてるだけでもダメ。
考えているだけじゃ話にもならない。
とにかく態度に表す事。
それは他人に伝えるためというより、むしろ自分の自覚を高めるために必要なのだ。
そうすれば自分を態度でコントロール出来るようになる。
私の印象は私の態度が作る。
私の能力は私の態度が育てる。
私の人生は私の態度が拓く。
態度というものは単純ではないので、良い態度、悪い態度というように単純には測れない。
一見、態度が悪そうな人が愛される事はよくある話。
態度というのは不思議に深い。
「幸せなら手を叩こう」ではなく、
「手を叩いて笑いましょう」というのが幸福への道なのかもしれない。
幸福は環境より態度が決める割合の方が遥かに大きい。
先日、大学生と話していたら「10年後、僕はどうなっているのかと思うと不安になります」と言うので、「悲観するな」と言った。
すると「でも楽観は出来ないと思うんですよ」と言うので、
「先のことなど誰にも分からない。そんなもの悲観しても楽観していても意味がない。静観しろ」と言ったら目を白黒させていた。
楽観でも悲観でもなく、静観するという態度だけが人生を前に進める。
すべてはコミュニケーションの進化から始まる。
それは身体感覚から身体感覚へと伝わりながら、感覚の共有を生み出していく。
映像言語はその役割を担うひとつツール。
すべては身体感覚。
人生は身体の感覚体験。
ここに深く気付くことが出来れば、
すべては動き出す。
未来は我々に進化を求めている。
我々が自らの固着した感覚を変容させ、
想定外の世界へ踏み込んでいくことを求めている。
「地に足の着いた」という言葉の生易しさを思うが良い。
足をつけるべき「地」であるこの星は、
その誕生以来、宇宙という訳の分からんところをずっと漂流し続けている。
漂流こそが我々の本質なのだ。
育てたいのは、未知なるものとの出会いの連続に一瞬の光を見出す力。
その光をみんなで分かち合う力。
その力を育てるものは新しい言語。
新しい文学。
新しい物語。
実力ではなく虚力。
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