ケダモノのすすめ
内なる野性にしたがい日々を生きる男の独り言

愛は呼べば来る

人は好ましいものとはすぐ同化出来る。
でも気持ちの悪いものや苦手なものと同化することは難しい。

しかしちょっとした意識の「ずれ」が起こったりすると、実は好き嫌いにかかわらず同化しあって存在しているのがこの世界の姿だといことに気付くことがある。

ボブ・マーレイが言った「one love」とはそういうことなのでないのかな。
それは般若心経に書かれていることにも通じるように思う。
それはキリストが「なんじの敵を愛せよ」といった言葉とも重なってくるように思う。

美しいと感じること、醜いと感じること。
それらは結局、自分が向きを変えれば変わっていく景色のようなものなのかも知れない。そして、それは自分の内側の風景でもあるのだ。

受け入れたいものと受け入れ難いものとはこの世界の異なった風景にすぎない。それは分ち難くつながった無限に広がる織物のようなものなのだから。

今、僕の中でこだまする言葉がある。
「愛は出せば出す程もっと出てくる」


愛したい人が沢山いる。
愛せない人も沢山いるだろう。

でも愛は呼べば来るものなのだ。
だから僕は恐る恐るでもいいから、
少しずつ愛を広げていきたい。

と何故か強く思う今日この頃なのです。

縦書きの話


日本語は縦書きで読み書きするものだと思う。
しかしこのネットのほとんどが横書きで書いたり読んだりするのが普通になって来てしまった。

政府の文章も横書きになってしまったらしい。
これは本当はよくないんじゃないかと思う。

以前、鼓膜が破れてしまって音がよく聞こえない状況だった時、どうしたことか横書きの日本文を読むのが非常にきつく感じた事があった。不思議なことに同じ横書きでも英語なら別に苦痛を感じない。

こういう身体に余裕がない状況では本来の感覚が研ぎすまされることがあるが、まさにその時の僕がそうで、キーボドで日本語を「打つ」作業が非常に苦痛だったし、なんだか夢の中で流れていく川の水に字を書いているような気分だった。

僕は身体感覚を必要(健康上の理由)に迫られてダン先生から学んで来た。

そのなかで筆を使ったかなりきつい稽古法があって、それをやりながら「縦書き」というのは「日本文化としての身体」と密接不可分の関係にあることを思い知った。

例えば我々は判断は「頭」ですると思っているが、データからだけで判断しかねる場合というのが多々ある。その時「これで行こう」という判断のよりどころはどこにあるのだろう?

結局「なんとなく」としか言いようのないものがその判断の元になるのだが、それを掘り下げていくと身体の中の「軸」の感覚だとか「中心」の感覚というものに行き当たる。

それを作り上げているものは身体の使い方に他ならない。
僕はこの身体の使い方の基準となる「共有された感覚」のことを文化と呼んでいる。

立ち居振る舞い、箸の上げ下げ、茶碗の持ち方、挨拶の仕方等々の中にそれは見いだすことが出来る。
縦書きの日本語というのももちろんその中に入っている。

小さい頃よく母や祖母に「チャンとしなさい」と言われた。
この「チャンとする」ということはどういうことか?

今なら僕は「軸」を崩さず「中心」を出すことが「チャンとする」ことだということを知っている。

縦書きの日本語は「軸」を意識させてくれる。特に筆による縦書は背骨の感覚をはっきりさせる事で成り立つので、この国の深層体育として我々の身体や文化の有り様の醸成に大きな影響を与えて来た。

このような長い時間をかけて形成されて来た「共有感覚」を我々はもっと大事にするべきだと思う。

Athi Riverの奇跡

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 2006年9月、はじめてケニアに行った時の話です。

 羽田、関空、ドバイ、ナイロビと待ち時間も含めたらまるまる24時間かけてケニアに到着しました。空港にマークとリリーが迎えに来てくれて、彼らの車にのってナイロビの中心に向かうといきなり広大な景色が広がります。けれども不思議と遠くに来たという気持ちが起きません。

 僕は何故か、小さい頃祖母と暮らした鹿児島を思い出しました。力強い大地の力を感じるところが共通しているのかもしれません。

 翌日、3月に行われたトライアルの地、AHTI RIVERにいって来ました。ナイロビから30キロ程離れたところにその地はあるのですが、幹線道路を離れるとそこはもう原野の中。何度か行ったことのあるスタッフでさえ途中で道(?)が分からなくなり、今自分たちがどこにいるのかさえ危うくなってきました。

 するとたまたま通りかかった牛飼いの少年と出会い、彼の教えてくれた通りに行くと、ぽつぽつと民家のあるところに出ました。そこである男性を道案内に雇い、なんとか現地に到着。

 そこで僕が見たものは、何度も映像で見たあの景色でした。

 粘土団子を蒔いたあとに作った動物よけのフェンスを目指し、枯れた背の高い草をかき分けて近づいていきますとフェンス越しにはっきりとアカシヤの幼木が見えるではありませんか!!

 僕は夢中で柵を乗り越えフェンスの中に入りました。確認できただけで40本を超えるアカシヤが元気に育っていました。

 「本当だった!!本当に生えるんだ!!!」

 昔、アカシヤの大森林地帯だったこの地に、また森が蘇ることも不可能ではない。僕はその姿をありありと目に浮かべることが出来ました。

 しかし、迷い迷って辿り着いたので、もう日暮れも間近という時間になっていました。スタッフの一人が、「もうすぐワニが活動を始める。早く戻ろう」と緊張した面持ちでせかし始めます。そう、すぐそばを流れるAHTI RIVERはワニの生息地なのです。

 ここはやはり鹿児島ではなくアフリカなのでした。

 僕達が逃げるように車に駆け込んだのは言うまでもありません。。。

自宅出産(2)



「出産は病気じゃないんだから自宅で産みたい」という僕達の願いを実現させるためには、いくつかハードルがあった。
親戚一同には反対された。「万が一のことがあったらどうするんだ」というのがその理由だ。「万が一のこと」が絶対におこらないとは限らない。しかしその可能性を最小限にすることは可能なはずだ。もともと僕達夫婦は整体協会の身体教育研究所で稽古していたのが縁で結婚したのだが、この「稽古」が我々に自信と実際の能力を身につけさせてくれたのと、よい助産婦さんと出会えたことが三人の子供全部自宅出産できたことの大きな背景となった。

1999年の1月7日の午後4時過ぎに「おしるし」が来た。

僕は助産婦さんに電話した。
しかしその時、助産婦さんから帰ってきた言葉は
「多分私は間に合わないから取り上げといてください」
というものだった。

僕を愕然とした。控えめに言って僕はものすごくびっくりした。
「えっ、俺がとりあげるの!!!!」

万が一に備え、心の準備は万端整っていたはずなのに、僕は正直に言ってビビリまくった。

「取り上げるってどうしたらいいんですか?」
「その時になったら自然に分かります」

助産婦さんの落着き払ったその言葉は僕の中でこだました。

「そのときになったらわかる」

そして約4時間後、その言葉に嘘がなかったことを実感することになった。

 
妻は産まれる1時間前まで普通に動いていた。
「紅茶でも飲もう」とお湯を沸かしている途中に突然、「竜さん、あたしあかんわ」と言ったまま、四つん這いになってしまい、それこそケダモノとしか思えないような低いうなり声をあげ始めた。

不思議なことにその「うなり声」を聞いたとたん、僕の中に激しい変化が起こった。四つん這いになったまま、ただうなり声しか出すことの出来なくなった妻がとてつもなく愛しく感じられ、それまでの不安な気持ちは消え失せ、決然としたものが僕の中に生まれた。

「もう産婆さんは間に合わない、俺がやるしかない」と腹が据わった。

腹が据わったとたん僕は妻の身体をさすったりつまんだり揺すったりし始めた。

何も考えていないのだが、身体が自然に動くのだ。

「なんでこんなことしているのか」と頭のどこかで思っているのだが、身体はおかまいなしに動き続ける。あとで妻に聞いたらそれでずいぶん楽になったらしい。不思議である。

最後は声を出したくなった。最初は「え」の音が出したいのでそうした。すると骨盤の下の方が開いてきた。次に「お」の音を出したくなったのでそうした。今度は骨盤がさらに開いてきた。

するとまさに「ズルズルズルーッ」という感じで賀七子が出てきた。
賀七子は羊膜をかぶったまま、ちょうど彼女のおなかの辺りまで一気に出て来た。僕は彼女を落とさないように手を差し伸べた。
(このときのことは「親の気持ち」で書いてます)

その直後、助産婦さんが到着し、据わったはずの僕の腹腰がもろくも崩れたことを告白しなければならないだろう。

自宅出産(1)



僕には三人子供がいる。三人とも自宅出産だ。僕が「現場」に付き添えたのは残念ながら長女の時だけだったけど、最近「子供を病院で産むべきかどうか」という質問をよく受けるので、僕達夫婦の場合について書いてみたいと思います。

病院には検査に3回行っただけだ。私の妻は妊娠中、すべて普段通りに過ごした。毎日、それこそ雨の日も風の日も黙々と1時間位は歩きに出ていたし、家事だって全部きっちりとこなしていた。(長女が産まれる1時間前まではいつも通りにお茶を入れようとしていたぐらいだ)。

妻は細く、骨盤も小さいので病院で出産していたら、間違いなく帝王切開されていただろう。しかし長女は本当にスルリという感じであっという間に産まれてきた。2505gの小さな赤ちゃんだったが、母体の骨盤の大きさに見事にあった大きさで出てきたのは不思議としか言い様がない。

すべては自然がやってくれたという感じだった。
100年前の子供はみんなこうやって産まれてきたのだ。しかし、噂に聞くところによると、病院での出産はまるで工場でモノを作るみたいにすべては病院の都合にあわせて進行させられるとか。医者が早く帰りたいから陣痛促進剤を打たれたり、麻酔を打って出産したためにいつ赤ちゃんを生んだのか記憶がないとか、とにかく信じられないような事が実際に行われている。

人間はモノではない。妻も病院だけでは産みたくない、自然な事なんだからその流れに則って産みたいというので二人で感じるままに暮らし、その日を迎えた。「もし、何かあったらどうするの?」と言われる事も多かったけど、素晴らしい助産婦さんを紹介してもらい緊急の時の病院も決めて万全の体制で臨んだ。でも無事に娘が産まれてきた最大の要因は私の妻が「生命を見つめる眼差し」を持って日々をきちんと暮らしていたことだと思う。自分でやると覚悟したら人間は本当に力を出せるんだなぁとその時実感した。

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榎田竜路

Author:榎田竜路
気がついたらこの星の上にいました。
音楽作ったり演奏したり、映画を作ったり、森をつくったりといろいろやっております。

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